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第889回 株式会社リアルテイスト 取締役社長 田久翔太氏
update 22/07/12
株式会社リアルテイスト
田久翔太氏
株式会社リアルテイスト 取締役社長 田久翔太氏
生年月日 1989年11月25日
プロフィール 東京経済大学卒。大学時代のアルバイトで飲食の世界を知り、エー・ピーカンパニー(現エー・ピーホールディングス)に新卒4期生として入社する。鹿児島県への初進出時に店長に昇格。3年間、生産者たちともつながりをもち、東京に再配属。事業部長を経て、2020年、リアルテイストの社長に就任する。
主な業態 「串亭」「二平」など
企業HP https://www.real-taste.net/

ピッチを駆けた少年時代。

サッカー少年だった。
「2つ上の兄に影響されて始めました。父親の転勤で小学校の2〜3年間、石川県で暮らしていたんですが、その時に全国大会に出場しています」。
ポジションはフォワード。本人いわく、目立ちたいから。
「子どもの頃は結構わがままで、自信家だった気がします。人見知りもしないタイプでしたし、明るいキャラでクラスでも目立っていたと思います」。
勉強よりスポーツというタイプ。サッカーは中・高でもつづけている。中学での成績は県大会ベスト4。背番号は10。サッカーが盛んな千葉でベスト4だから悪くはない。
複数の高校からスカウトが来る。いずれプロのサッカー選手に、それが目標になる。
「でも、高校で初めて挫折を味わいます」。
どういうことだろう?
「私は修徳高校に進学します。サッカー部員だけで150人くらいいました」。
田久氏もそうだが、県外からスカウトされた選手が集まる強豪校だ。そのなかでも早くからAチームに入る。自信が確信にかわる。ただ、対戦相手にとんでもない奴がいた。
「今もプロでやっています。オリンピック代表にも選ばれるくらいですから、そりゃ、巧いわけです(笑)。私より小柄なのに足も速いし、簡単にまた抜きもされてしまう。プライドもずたずた。その時、初めて上には上がいることを知って。そう、人生初の挫折です」。
試合があると、決まってご両親が駆けつけたそう。「父母が私のいちばんのファンです(笑)。父は毎週、試合にきてビデオを撮ってくれました」。
高校時代にはオランダにも海外遠征している。ただ、プロはもうあきらめた。

飲食が好きだったんだと気づいた、就活時代。

「大学は東京経済大学に進学します。飲食に出会ったのは学生時代です。サッカーはやめていましたし、大学より、飲食の世界が私の居場所でしたね。錦糸町の居酒屋で、4年間バイトをしました。ただ、就職は親の目もあって飲食以外のつもりで不動産や金融の会社を検討していました」。
ただ、意外なことで進路が決まる。
「就職活動を行っていくなかで、だれもがおなじスタイルで、おなじ問答を繰り返すことに、なんでだろうと思っていました。そんなある日、バイト先が倒産してしまうんです」。
日課が日課でなくなる?
「そうですね。アルバイトは、生活の一部でしたから。あの時、店に立つことができなくなって、初めて飲食が好きだったんだと気づくんです」。
就活の羅針盤が、視野になかった飲食に傾く。とはいえ、飲食には様々な業態があり、会社も、店も様々。どうしてエー・ピーカンパニーだったのだろうか?
「じつは、アルバイトをしていた店の、同じビルに塚田農場があって、とんでもない業績をたたき出していることはうわさで知っていました。実際、飲食のなかでは、いちばん勢いがあった。それもあって、受けるならここだと」。
面接もそれまでの会社とはまるでちがった。衝撃的だった、と言っている。「選考を通過するたびに、会社のことが好きになっていきました」。
飲食というカテゴリーだからではなく、エー・ピーカンパニーという会社そのものに惹かれる。「けっきょくは、人なんですね。いっしょに働きたい人がたくさんいたことが、いちばんの理由です。また、6次産業という斬新な発想はもちろん、アルバイトを含め、スタッフの思いをかたちにするオペレーションなど、いままでにないアイデアに心を動かされました。ただのアイデアではなく、生産者、それを提供する人、そしてお客様がすべてつながっているんです」。
「私はこのあと、鹿児島で店長になり、生産者の人たちと接することができるんですが、作り手の思いをつぐ、それが、今の私の、経営指針の一つになっています」。

社長、一番乗り。

田久氏は新卒4期生で、エー・ピーカンパニーに入社している。同期は、40人程度。
「私が入社したのは上場する前です。当時の営業時間は平日24時、金土日25時まで。当時の店長がミーティングを大事にする人で、店が終わってからミーティングがスタートします。店に泊まり込んだことも少なくなかったです。そのお店で経験を積み、そこから鹿児島です」。
鹿児島で店長に就任されたんですよね。
「そうです。鹿児島県、初出店の時です。当時は宮崎に1店舗あったくらいで、知名度もなかったのでアルバイトを確保するのもたいへんで、私も大学にビラをもっていき配りました。結構、たいへんでしたが、初月から目標の700万円はクリア、立ち上げ隊の使命は果たしたんですが、結局、3年、向こうにいました」。
この3年は、エー・ピーカンパニーにとっても、田久氏にとっても貴重な3年となった。
「向こうにはともだちもいない。だから休みの日はヒマで(笑)。休みのたびに生産者さんたちをまわって話を聞きました。地鶏の農家、酒蔵、焼酎をつくっているところ、野菜の農家にも何度もおじゃましてお話をしました。作り手を知ると、それだけで売り方もぜんぜんかわってきます。もちろん、キズナもできます。エー・ピーカンパニーの強みである生産者さんとのつながりを直に体験できたのは、今も私の最大の武器になっています」。
その後、東京にもどった田久氏は、複数店舗を管轄するマネージャーに昇進する。
「新宿、池袋からスタートし、埼玉の店も担当しましたし、事業部長になってからは神奈川エリア全域11店舗を管轄していました」。
飲食と田久氏。サッカー少年の時とはむろん異なるが、フィールドを駆けまわる姿は同じなのかもしれない。
「ある日、突然、CEOの米山さんに呼び出されて、ドアを開けると役員が勢ぞろい。え? 何で? オレなにか悪いことでもしたのかなって焦りまくりです(笑)。はい、その時に思いもしなかった社長就任の話をいただいたんです」。
「おめでとう、新卒で君が社長一番乗りだ」というCEOの米山久氏からの一言は今も頭に残っている。新卒4期生でありながら、新卒初の社長就任。
「特別、出世しようと思っていたわけではありません。正直にいうと産地との連携は私がいちばんでしたし、塚田農場イコール、オレ!って思っていましたら、そういう意味でも関連会社の社長というのは意外なオファーでした。ただ、昔から『言われたことはやろう、受けよう、それがオレの価値だ』と思っていたので、その時も、あれこれいわずに、『わかりました』と。ただ、それが試練の始まり(笑)」。

新米社長、試練を乗り越える。

田久氏が社長になったリアルテイストはエー・ピーカンパニーがM&Aをした会社である。メイン業態の「串亭」はグルメサイトの点数も高いアッパーな業態。そこに社長として、送り込まれたのが田久氏だった。
「就任して2年になりますが、最初はめちゃくちゃカベを感じました。こちらとしてはエー・ピーカンパニーのいいところを移植したいわけですが、なかなかうまく進まず。今まで人に嫌われていると感じたことはないんですが、あの時は、正真正銘の、嫌われ者になってるなと思いました」。
わからなくもない。社長と言えども古手の社員からすれば新参者だ。
「タイミングも悪くコロナでリモート。相手の反応がイマイチわからない。ただ、私が何かを伝えても、なかなか腹落ちしてないなと思うことも多かったです(笑)」。
新参者の社長。田久氏はこのピンチをどう乗り越えたのだろう?
「これだけはというものがあって、それだけは現場を押し切って行いました。それは何かというと、メニューの変更回数です。それまでは年4回。しかも、1回あたり、季節の串を4〜5本変更するくらいでした。それを年6回にして、1回あたり15本、ちょうど半分ですね。それを毎回替えました。最初は『そんなにできない!』っていう料理人の声が聞こえてきました。でも、実際やってみると、常連さんを含めてお客さんが喜んでくださるんですね。そういうお客さんをみていたら、料理人の表情もかわっていったんです」。
おいしいね。その一言に敏感でない料理人はいない。
「そういうことがあって、少しずつスタッフたちも私に心を開いてくれるようになりました」。食材の仕入れ先も変更した。「安くていいもの」から「いいもので、作り手の顔がみえるもの」に。
生産者とつながって来た田久氏の真骨頂だ。
まだまだ志半ばだが、今から益々、いい会社になっていくのは間違いない。
新参者の社長の、次の一手はなにか。
案外、それを今、いちばん楽しみにしているのは、2年前、新米社長の登場に戸惑っていたスタッフかもしれない。試練の向こうには新たな仲間たちがいた。

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