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第892回 株式会社日比谷松本楼 代表取締役社長 小坂文乃氏
update 22/08/02
株式会社日比谷松本楼
小坂文乃氏
株式会社日比谷松本楼 代表取締役社長 小坂文乃氏
生年月日 1968年1月9日
プロフィール 約120年前の1903(明治36)年に開業した“日比谷松本楼”の創業者の一族として1968(昭和43)年、東京都港区に生まれる。2人姉妹の活発な妹として割と自由に育ち、中学・高校は母親の勧めもありイギリス留学。帰国後、大学で観光学を学び、外資系企業に勤めるも2年で退社。24歳で父親が社長を務めていた“松本楼”に就職。本人は「日比谷公園から出たことはないんです」と笑うが、2017年、父親の後を継ぎ社長に就任。さらには社長業の傍ら、出身校である立教大学校友会副会長、日本フードサービス協会JF厚生年金基金理事、一般財団法人日本食生活文化財団理事など多数、兼務。また小学生から高校生までを対象とした各種講師など、精力的な活動を続けている。
主な業態 「日比谷松本楼」
企業HP https://www.matsumotoro.co.jp/
1903(明治36)年、日本で初めて西洋式庭園として誕生した日比谷公園。時を同じくして創業したのが東京都千代田区日比谷公園内にある洋風レストラン「日比谷松本楼」。今回は、120年の歴史を誇る「日比谷松本楼」の4代目の社長、小坂文乃氏にお話しを伺った。

病弱な姉と健康で活発な妹。

「24歳からここで働いていますから、日比谷公園から出たことはありませんね」と笑う小坂氏。幼いころから活発な少女だったようだ。
「両親と2歳上の姉の4人家族で育ちました。ただ姉は身体が弱く病気がちだったためか、母は姉に付きっ切りのような日常でした。極端に言えば“ほったらかされ状態”のようで子ども心に『お姉ちゃんばっかり!』と振り返った小坂氏。それが、家の中より外で友だちを作って遊ぶのが好きな積極的で活発な子どもに育った要因と言えなくもない。
「両親には『もっと自分もみてほしい』という思いはありました。勉強も頑張りましたし、学校では生徒会活動に励んだり、と結果的に活動的な自分を作っていったように思います」。
小学校は姉と同じ区立小学校に進学。「姉は学校になじめず一緒に3回転校しました」。

小学6年の3学期、1月にイギリスに渡った。

小学校を卒業した12歳の春、イギリスに渡った。
「イギリス留学は母の勧めでした。母は父と結婚する前、英国大使館に勤めていたこともあり、見分を広めることもあったのか、海外で学ばせることを考えていたようです。それは、言語が通じないなかでコミュニケーションを図るとか、相手を理解するとか、海外での経験が人生において役に立つと考えていたからではないかと思います」。
かくして小坂氏は先にイギリスに渡った姉を追うように1年半後、イギリスの地を踏んだ。留学したのは、ロンドンとブライトンの間くらいの南イングランドのウエストサセックス州にある、立教英国学院。
「寄宿制の学校でした。ですからベッドが空かないと入学出来ないんです。丁度小学6年の3学期スタートの時期に空きが出たので、中途半端な時期でしたが、イギリスに行きました。留学当初は英語も話せず、生活習慣も違うので苦労しました。友人たちにずいぶん助けられました」。
当然だと思うがイギリスの学校も日本と同じように春休み、夏休み、冬休みがある。驚くことに小坂氏は、その間、中学2年くらいから高校卒業までほとんど帰国することはなかったとのこと。
「姉は休みのたびに帰っていましたが、わたしは中学2年から高校卒業までほとんど帰らず、その間、ホームステイをして過ごしていました。ひとつには、当時のレートで1ポンド500円くらいだったと記憶していますが、父が旅費もかかるので懸念していましたし、当時は直行便なかったことなどが帰らなかった理由のひとつですね」。
本人が意識するかしないかは別問題として、こうした体験が現在の小坂氏の精神性を作り上げた要因のひとつであることに変わりはないだろうと推察する。

事業を継ぐ意思はなかったのだが…。

中学・高校と6年間の留学生活を経て帰国。立教大学へ入学。
「心理学を志望していたのですが、環境がそうさせたのか、社会学部観光学科に進みました。一方で、帰国した当時の同世代の学生の間隔に戸惑う場面も多々ありました。たとえばみんな同じとは言わないまでも誰もが似たスタイル、ファッションに身を包んでいましたし、流行なのかどうか同じスポーツ〜テニスですけど〜をしているし、画一的に写りました」。
大学生活を過ごしながら将来のことを、どう思い描いていたのだろうか。
「父の事業、“松本楼”を継ぐことは考えていませんでした。教師になりたい、あるいは小説家、作詞家になりたいと思っていました。元々、幼いころから自己表現がある意味で得意だったせいかもしれませんね。現在、さまざまな機会をいただいて講師を務めることがあるのですが、表現という意味で現在に繋がっているように思います」。
「継ぐ意思はなかった」という小坂氏が、結局は継いで現在にいたるわけだが、どのような経緯で「継いだ」のか。

大学卒業、就職。そして「松本楼」へ。

「将来は海外に移住したいと考えていました。そのために必要な資金は自分で貯めてからからと考えました。海外に行くチャンスがあると思い、外資系の会社に就職しました」。
就職したのは外資系のWaterford Wedewood Japan株式会社でマーケティング部に所属、思い描いた順調な社会人生活をしていたところが、思いもかけない事態が起きた。
「明治以来続く”松本楼“の跡継ぎに関しては、父なりの考えはあったと思います。父は、1932(昭和7)年生まれで、いわゆる“昭和ヒトケタ生まれの男性”でしたから、女性が社長になるという考えはなく、姉か私のどちらかが婿をとって継がせることを考えていたと思います」。
「姉が急遽、お見合いで銀行マンと結婚してしまいました。そして、周囲の人たちにとっては私が跡継ぎになるのだろう、ということが暗黙の了解になってしまいました。母に説得され、努めていた会社を辞め、“松本楼”に就職しました。24歳の時です。最初は厨房から入り、料理やケーキを作る手伝いから始めました」。
「話は変わりますが、いわゆる“昭和ヒトケタ生まれの男性”すべてに共通しているとは思いませんが、父はともかく仕事一筋でしたから、家のことは母に任せていることが多く、普通の家庭なら当たり前のようなクリスマスなどの家族で過ごすイベントなどはありませんでした。母も寂しかったのではないでしょうか」。

シングルマザー奮闘記。

“松本楼”を継ぐことに決めた小坂氏。一方で、当人の結婚問題に直面した。父親は元々、恋愛に関しては干渉してこなかったが、婿候補となれば話は別、厳しい目線で判断されたようだ。
「当時、お付き合いをしていた方がいたのですが、両親から干渉され破局してしまいましたし、一方、“松本楼”と継ぐという重責に耐えられず、自ら身を引いた男性もいました。お見合いも何度か経験しましたが、最終的には27歳のとき、当時お付き合いしていた人と結婚しました」。
が、結婚生活は長くは続かなかった。
「1年後に離婚となりました。ちょうど臨月の頃に重なりました。生まれたのは男の子です。つまり、一人で生んで一人で育てたということになります。いわゆる“ワーキング・シングル・マザー”です」。
無事に出産を終えた身に「いつ復帰するの?」と母に職場復帰を促され、また本人も早く復帰しなければという思いもあり、産後2カ月程度で復帰した。つまり、生後2か月の乳飲み子と仕事を両立させる生活を送ることになった。
因みに現在は、産後8週間の産後休暇、その後、子どもが1歳6か月まで(延長で2年)の育児休暇の取得が法律(労働基準法)で定められている。小坂氏が取得した2カ月というのは短い。
こうした日々、乳飲み子の育児と仕事とにプラスして新たな負荷が加わった。母の看病である。
「母が癌になり、看病、介護が10年間、続きました。銀行マンに嫁いだ姉は、シカゴ、ロスアンジェルス、アムステルダムと海外勤務が続いていましたから、結局は私一人で対応するしかなかったのです。10年間の闘病生活の末、母は67歳でなくなりました」。
当時を振り返って小坂氏は、こう言う。
「30歳代はとにかく大変でした」。

時には衝突もあったけれど、認めてもくれた。

父親が代表を務める“松本楼”。小坂氏は、販売企画など旧来にはなかったようなプランを提案するも、そこは“昭和ヒトケタの男性”。父親には長年積み重ねてきた、娘の小坂氏には絶対的に不足している経験も知恵も自負もある。
「『お前に何がわかる!』と叱責されたり、提案した企画など却下されたこともありました」。父と娘の衝突がたびたび起こることに。とはいえ、全面的に認められなかったわけではなく、小坂氏独自の視点、企画で業績を伸ばしていくこともできた。
「ここは場所柄、霞が関が近く、接待やパーティなどでのご利用が多かったです。そこに“官官接待”(大蔵省接待汚職事件)の問題が持ち上がり多少、経営が厳しくなるなどした時期に私の発案で“レディースランチ”やワインのイベントを行うなど現在に続くイベントが生まれました」。
余談ながら“松本楼”といえば“10円カレー”が知られていて、実際に食べた方も多いことだろう。今年で50回目を迎えるが、発端は、こうだ。
1971(昭和46)年、沖縄返還協定に反対する過激派グループによる放火で全焼し、一時は閉店に追い込まれた“松本楼”だったが、全国のファンの支援により2年後の1973(昭和48)年に再オープン。その感謝の気持ちを込めた記念行事として始まったイベントである。毎年、9月25日に開催されている。
また「支店の展開については、郊外型ファミリーレストランが流行してきた時代にデパート食堂が衰退し、戦略の見直しを余儀なくされました。そこで、病院や大学のお話がでてきたので、そちらにシフトしていきました」とのこと。

社長就任は父親のインフルエンザがきっかけ?

社長に就任したのは2017(平成29)年。
「息子が大学に進学したのがきっかけになりましたが、就任3カ月前、当時83歳で元気だった父親がインフルエンザに罹ったことが大きな要因でした」。
何事にも慎重だった父親で、当然、資金面での管理も万全でした。ただ、それが思わぬ事態を招いた。
「インフルエンザによる高熱で、金庫の番号を思い出せなくなってしまったのです。お金の管理は厳しかっただけではなく、金庫の番号は誰も教えられてなく父しか知らなかったんです。要するに、開けられない事態になったんです。困りましたよ!」と笑うが、当時は“笑いごと”ではなかった筈だ。
そんな、失礼ながら“笑い話”のようなアクシデントを乗り越え、副社長から社長へ就任したが、就任3年後、また歓迎したくない試練がやってきた。
“新型コロナウイルス感染症”の世界的な流行、日本も例外ではなかった。いわゆる“パンデミック”だ。

“禍”ばかりではなかった“新型コロナウイルス”

2020(令和2)年2月のこと。豪華クルーズ船で始まった“新型コロナウイルス感染症”は時を空けず屋形船での感染など、一気に広がりをみせた。
「屋形船のニュースが流れた翌日から予約のキャンセルが相次ぎました。波がサァーと引く感じですね」。どのような方法で対処したのだろうか。
「取り敢えず、病院以外の店舗は休業しました。売上は大きく減少しましたが、幸いにも父の慎重な経営のおかげで資金的な面は十分な留保もありましたが、新しい道を模索し、かつ切り開くための知恵を授かったように思います」。
2020(令和2)年夏、一向に終息の気配が見えない“新型コロナウイルス”のニュースに接するたびに、先行きを考え直したと小坂氏は語る。
「安定した売上を今後も確保しいていくためのことを考えました。宴会需要や大学の校友会などが利用する店舗の需要はまだ戻っていません。今後の展開としては、コロナ禍や東日本大震災時も営業が可能であった病院内レストランへの出店を進めていきたいです。また、木々に囲まれた立地を生かしてお客さまに喜ばれる、宝飾品の展示即売会などの機会を増やしていきたいと考えております」。 そして来年は創業120周年を迎えるので無事に終えたいとのこと。

創業時の使命を受け継ぎ、より進化させる新時代の使命。

「1903(明治36)年の創業時、“洋食を世の中に紹介する”ことが“松本楼”の使命でした」。
2022(令和4)年のいま、一説によれば東京では100か国ほどの料理が食べられるという。
「現在、東京ではあらゆる食を楽しめることができるようになりました。その意味では“洋食を広げる”という創業当初の役割は達成したと思います。これからは、日本人に合う洋食の伝統を伝えながら“日本各地の素晴らしい食材を日本の中心から日本中に、世界中に紹介すること”が、“松本楼”に課せられた今後の使命だと思います。さらには、日本人でありながらまだ食べたことのない野菜や肉、魚、酒なども使用することで農業や漁業の生産者さんへのエールにもなり、ひいてはお客さまにも新鮮な喜びをお届けすることに繋がると思います」。
小坂氏はこうした未来への展望を語り、「具体的には、幻の壱岐牛(長崎県)、八丈島海風椎茸、八丈島ジャージー牛のチーズやバター、青島ひんぎゃの塩、江戸野菜などを仏蘭西料理のコースに使用しております」。
24歳でこの道に入った小坂氏。厳しい両親に鍛えられ、シングルマザーで子どもを育てながら、いくつかの苦境を乗り越え老舗の名を守り続けている小坂氏。
最後に、こう口にした。
「息子は26歳になりました。将来は“松本楼”で力を発揮したいという日が来るかも知れません」と……

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