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第917回 株式会社金嶋 代表取締役会長 金嶋昭夫氏
update 22/01/17
株式会社金嶋
金嶋昭夫氏
株式会社金嶋 代表取締役会長 金嶋昭夫氏
生年月日 1945年6月12日
プロフィール 1945年、生まれ。極貧生活を送りつつも、希望を失わず、まっすぐに生きる。20歳、焼鳥店を開業。 ネットワークを広げながら、チャンスを次々つかみビジネスを拡大。池袋にカラオケルームをオープンするなど、カラオケブームの生みの親。2021年には歌手デビューも果たす異色の経営者。
主な業態 「カラオケ747」「隠れ野」「金のイタリアン」「パーラー747」
企業HP http://www.jak747.co.jp/

生きてりゃ、きっといいことがある。

雨は、今でも怖い。昔の貧しかった頃を思い出すからだ。「うちは、兄弟6人の8人家族。親父は1日中、酒浸り」。
6頭飼っている豚が命綱。
「いったら母親の女手一つ。極貧って奴でさ。雨が降っても、傘がない。うちに一つもね。だから雨が降るとね、ともだちの傘に入って通学したもんさ」。
給食代もない。
「腹が痛い」といって給食を食べず、空腹を鎮めるため校庭で水をガブ飲みした。「笑い話といえばそうなんだけどさ。ある時、道に、飴玉が落ちてんだ。『やったーーー』って思ってさ。だれにも取られたくないからあわてて口にいれたら、ナフタリンだった」。
笑い話にならない記憶もある。
「また、ある時、母親が私らを集めて、『青酸カリを飲んで、みんなで死のう』って。まだ子どもだから、どうすればいいかわからない。わからないけど、『母ちゃん、生きてりゃ、きっといいことがある』って泣きながらそういったよ」。 
「でさ、」と金嶋氏。
翌日、千円札を拾ったそう。
「うそみたいな話だけど、ほんとにいいことがあった笑」。
いいことがきっとある。
泣きながら叫んだこの言葉は、以来、金嶋氏の母親はもちろん、兄弟、そして、何より金嶋氏自身を支えつづけたのではないだろうか。
ゲーテがいう「一片のパンに涙したもの」を真似れば、ひとしずくの希望にすがったものしか、人生のだいご味はわからないとなるのかもしれない。
兎にも角にも、株式会社金嶋、代表取締役会長、金嶋昭夫氏の人生が、色づき始める。

最高の幸せのかたち。

畑を借りて、母と兄弟で助け合いながらの生活がつづいた。小学校6年の時には、東京王子に引っ越した。6畳一間。子どもが大きくなれば、部屋は狭くなる。
「大学に行くつもりはぜんぜんなかった。就職したのはサントリー系の『東洋果汁』という会社。母親がはたらいていたという縁もあって」。
「韓国籍だから」と相手のご両親に結婚を反対されたのは、就職してしばらくした頃。「会社の前に食堂ができて、そこで彼女がはたらいていたんだ」。
高校を卒業した奥様は、親の反対を押し切って、金嶋氏が暮らすアパートのドアをノックした。奥様の決意と覚悟は、もう一つの覚悟と決意を生む。
「なんとしても、彼女をさ、社長夫人にしてやろうって」。
それが、当時の金嶋氏が思う、最高の幸せのかたち。
だから、社長に向け、動き始めた。
「20歳の頃だな。南橋本に焼鳥店をつくります。兄弟の知り合いにお金をかりて、古材で、文字通り見様見真似でつくりました」。
社長夫人、誕生への第一歩は、手作りのお世辞にもかっこいい店ではなかったが、奥様も必死に声援してくれたはずだ。
もっともご本人いわく、「修業もなにもしてないから、相当まずかったんじゃないかな笑」とのこと。それでも1年半程度、つづけられている。

天文学的なお金が、毎夜、舞い降りる。

「まずかったからなんだろうけど、うまくはいかなかった。知り合いがとんかつ屋を辞め、バーをはじめて大儲けしているって話を耳にして、だったらオレもって始めたんだ。うまくいったんだけどさ、南橋本は風俗をやっちゃいけいって、警察が来て風営法に引っかかるっていうんだな」。
「相模原で物件が空いて、そこはOKだったんで、そっちに移転した。うまくいきました。キャバレーを初めて見て、キャバレーをやりたいと思った。新宿に行きたいと思い、相模原のお店を売却して高級クラブの『コンコルド』を作った。これが26歳の時。女の子だけで40人はいた。でも、つけが多くて、キャッシュフローが回らない。将来性がないビジネスだと思って、高級クラブをやめて、歌舞伎町で初めて、『パブコンパカンパニー』をオープンしました」。
大きな丸いカウンター。その真ん中に白いピアノを置く。カウンターのなかには、20代の、今でいうピチピチギャルがズラリ。これが大ヒットする。
「めちゃめちゃ当たった」と金嶋氏。金嶋氏がいうんだから、相当、当たったんだろう。千円札に涙した少年からすれば、天文学的なお金が、毎夜、舞い降りた。
ただ、苦い思いもしている。
「コンコルドの時、男性社員が徒党を組んで、辞めようっていうことになったらしくてさ。ホステス40人もいっしょに連れて辞めようとしたのさ。でも、ホステスさんたちはみんな残ってくれたんだよね。にも、かかわらずそのホステスたちを、『パブコンパカンパニー』をつくった時、辞めてもらうしかなくってさ。彼女たちの職を奪っちゃったんだ」。
教訓にもなった。「社員が辞めたのも、けっきょくは私のせいだったんだな。社員たちのことを思ってなかったから」。金嶋氏は唇をかむ。たしかに、苦い思いと、大事な教訓が残った。

経営者、歌手デビューを果たす。

金嶋氏の、アイデアは、一つじゃない。つねに雨の日の記憶がある。だから、これでいいとは思わないし、天狗にもならない。バブルの時も、仕事以外にはみむきもしなかった。
「じつは、世界で最初にカラオケルームをつくったのは、私なんです。コンテナはあったんだけど、まさか東京のど真ん中にコンテナはないよな。だからちゃんとした店をつくった。池袋で始めたんだ。ブランドの747はジャンボジェットが好きだったから。ただ、おっきくするつもりはなかったな」。
「個室居酒屋 隠れ野」も始める。
「バブル経済が弾けたあと、ビルを15棟買った。うちは、損をしなかったからさ」。
43歳くらいの時に、「東京韓国青年商工会」に入った。「会員の人は、みんなお金持ちでさ。聞くと、パチンコ屋をやってんだな。それで、茨城下妻に空きパチンコがあったので、私も買ってやり始めた。他にも水戸とかに出したのが流行って7店舗出したが、今は、直営の1店舗だけ」。
ホームページで確認すると2022年10月現在、金嶋氏は、カラオケ747、隠れ野、金のイタリアン、パーラー747、立体駐車場を経営されている。
年齢は70を軽くオーバーしているが、まだまだやりたいことがたくさんある。2020年10月には、日本一のカラオケ激安店をオープン。新潮社からも本を出す予定。ちなみに、2021年から歌手としても活動を開始している。デビュー曲は、「新宿しぐれ」。金嶋氏が半生を過ごした新宿が舞台だ。
もう一つ、やりたくて、やりつづけていることがある。「これは、その一つなんだけど」と言ってみせてくれたのは、「児童養護施設新成人の激励にと1000万円寄付」と題した記事。
寄付とともに、伝えたいのは、あの一言。「生きてりゃ、きっといいことがある。」

思い出のアルバム
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