リテンションマテリアル合同会社 代表 大塚 達氏 | |
生年月日 | 1985年6月6日 |
プロフィール | 高校時代からアメリカンフットボールを始める。大学卒業後、ベンチャー企業に就職したが1年で退職。知人の紹介で始めた飲食の仕事に魅了され、店長にも昇格。その後、コンサル会社を経て、2013年に独立。次々、出店を行い、2022年現在7店舗を運営。敏腕経営者であると同時に、プロ顔負けのマジックを披露するユニークな経営者でもある。 |
主な業態 | 「叶え家」「日本酒人」「陣」「ノゲザウルス」他 |
企業HP | https://retmat.jp/ |
たぶん、からだのでかい奴らばかり。飯もどんぶり飯。「同じ釜の飯」というが、まさに、同じ釜のどんぶり飯を食べる、そんなシーンが繰り広げられたんじゃないだろうか。
「独り暮らしということもあって、家族ではありませんが、みんなとは兄弟のような密な関係でした」と、大学時代を振り返ってくれたのは、今回、ご登場いただいたリテンションマテリアル合同会社代表、大塚氏。
1985年生まれの、若き経営でもある。
「アメフトを始めたのは高校時代。先輩に誘われて入部して魅了され、大学時代もグランドを走り回ります」。
高校ではキャプテン、大学では副キャプテン。
「1年の時は3学年の先輩たちがいるわけでしょ。年次が上がると後輩ができる。同年代の仲間との関係もそうですが、先輩や後輩との関係も『密』の一言です」。
大塚氏は4歳の時に父親を早くして亡くしている。母一人子一人。「裕福ではなかったんですが、好きなことはなんでもさせてくれました。習い事も色々経験しています」。
「母が再婚したのは、私が小学4年生の時。姉が2人、兄が1人、きょうだいが一挙に3人できました笑。姉や兄たちはかわいがってくれましたが、再婚相手の父親とはうまくいっていなかったように思います。町工場の経営者で、口調もつよく、子ども心に溶け込まないといけないと思いながらも、それが難しかったですね」。
大塚氏は、当時の父子関係をそう語っている。
「ちなみに、卒業証書は2枚あるんです。大塚の姓と田中の姓で。母が再婚した時、相手の父親が経営者だったもんですから、何かあった時のことを思って、私だけ戸籍は『大塚』のままだったんです。ただ、面倒なので学校では再婚後の田中で通していたので、学校側が配慮してくれて、大塚と田中の2つの証書を用意してくれました」。
今は、大塚を名乗っているが、大学までは田中で通していたそう。
「だから、昔の仲間からは今でも田中達です」。
卒業、就職したのは不動産のベンチャー企業。いわゆるイケイケの会社。その会社を選択したのは、リクルーターのトークにうまく乗せられたからだったが、むろん、稼ぎたかったからとも言っている。
「子どもの頃、裕福ではなかったですし、当時はお金しかモノサシがなかったんだと思います」。
それから、過酷な日々が始まったわけですね?
「同期は7名いたんですが、2日で1人、2週間でまた1人、半年後には半分になっていました。私が担当したエリアは群馬。群馬は土地をもっている人が多いからマンションを購入する人がそもそも少ないエリアなんです」。
「とにかくプレッシャーがきつかったですね。先輩といっしょに回るんですが、先輩は監視役です。真夜中の3時にチャイムを押す。工場勤務などで、深夜に帰宅される人もいるから、まぁ、アリなんでしょうが、チャイムを押す手がなんども止まります」。
半年間、結果がでず、かわりに口内炎が12個できた。
「結果的に、こちらの会社に在籍したのは1年ですが、ふつうの会社の10年に匹敵すると思います。それぐらいきつかったです。ただ、最終的には営業ではトップの成績を残すことができました」。
調子があがってきたところで、世界的な金融危機が起こり、会社が倒産してしまう。
「いい意味で、プレッシャーの日々から抜けだすことができました。心の筋トレだって、真夜中3時にチャイムを押すこともなくなったわけですからね笑」。
だれが「心の筋トレ」と言い出したんだろう。たしかに、心は鍛えられまくった。
「中学時代の友人に誘われて、私の地元である八王子の焼肉店でアルバイトを始めます。始めはつなぎのつもりでしたが、お客様からいただく『ありがとう』にめちゃくちゃ感動してしまって、飲食の仕事にハマります。前職では、そんな言葉をもらったことがありませんでしたからね」。
心がいやされた?
「前職では、不審者ってことで警察に連れていかれたことがありました。ひどい時には、週に1回ペースで。その時とはお客様の反応も真逆です。心もいやされ、もっと『ありがとうをいただこう』と正社員になり、店長にも昇格しましたが、今度は経済的にきびしくて」。
「君がトップだと渡されたボーナスが4万円だった」と笑う。
「仕事そのものは好きだったんですが、さすがに最高額のボーナスが4万円というのはね。トップだったのは、事実で、みんなの倍はいただいていましたが」。
みんなは2万円?と聞くと、大塚氏は苦笑いする。
経済的な理由以外にも、狂牛病などもあり、将来を不安に感じたのも事実。
「それで、また知人の紹介なんですが、今度はコンサル企業に転職します。フランチャイズの加盟店をサポートする仕事です。好きだけじゃやっていけない、と再度、営業職にチャレンジしようと思っていましたから」。
お金と仕事の間で、心が揺れ動く。
「その会社の仕事は、電話で加盟店を探す仕事でした。『叶え家』は、そうした加盟店の1社です。その当時の『叶え家』は利益もでておらず、クローズするしかないような状態だったんです」。
そちらを買い取るわけですか?
「そうです。色々な経緯があり、私が会社を興し、経営を引き継ぐことなりました。2013年6月のことです」。
思い切った決断ですね。
「当時の社長から経験があるんだからやってみてはと言われて、二つ返事で引き受けることにしました。失敗したとしても経験になるし、経営はしたことがなかったですが、テレアポをつづけるより、そちらのほうが楽しいと思ったからです」。
思い切った決断だが、じつは勝算があった。
「焼肉店の時に、プロのマジシャンからマジックを教わっていたんです。プロレベルとは言いませんが、スプーンも曲げられますし、コインも消せます笑」。
それは凄い!
「お子さん連れのお客さんのところに行って、面白トークと、テーブルマジックを披露するでしょ。お子さんは100%喜んでくれるし、リピートもあって、それで100万円以上、月商がアップしていたんです。マジックのスキルはまったくさび付いていなかったので、それをやれば、ある程度リピーターはできるんじゃないかなと」。
もちろん、マジックはきっかけでしかない。
「マーケティングに注力し、コストパフォーマンスが高い料理をならべました。リピーターがだんだん増えていきます。半年後には、黒字転換しました」。
ただ、経営者として、わきが甘かった。
「財務を任せていた会社と、問題が起こり、最終的には勝訴するんですが、利益がぜんぶ抜かれてしまっていました。信頼していたということもあって、契約書も巻いてはいなかった。だから、経営者として私にも問題があったのは事実なんですが」。
料理と接客とマジックで、お客様を喜ばせていた一方で、「利益を抜く仕掛け」に気づくことができず、対価として頂戴したお金が消えていった。
「勝訴まで2年ぐらいかかりましたが、勝訴しても、もちろん、お金は返ってきません」。
損害は1000万円以上だという。「ただ、苦い経験ではありますが、社会を知るいい経験になったように思うようにしています」。
ポジティブな発想は、大塚氏の持ち味であり、切り札だ。
ちなみに、赤字を垂れ流し引き継いだその店舗は、今や蒲田で一番の繁盛店になっている。これこそ、大塚氏が披露したいちばん大掛かりなマジックだったに違いない。
2022年8月現在、7店舗を運営している。10店舗あったが、コロナ禍で3店舗をクローズしたという。「今後、飲食店だけというのはちょっとしんどいかなと思っています。今は、スタッフの採用も難しいでしょ」。
たしかに、そうだ。青息吐息の店は、まだまだ多い。
「コロナ禍の下をのぞけば、出店した店、すべてをヒットさせてきたという自負もあり、周りの方からも高い評価をいただいていたとは思うんですが、そんな私でも、今は出店に二の足を踏んでしまいます。正直言って自信がない。だから、今は暗中模索ですね」。
実は大塚氏。飲食業以外にも、様々なビジネスにチャレンジしている。不動産経営や、清掃業、今はもうやめたそうだが、クラシックカーの販売も行っている。
今後は、ブランド品の売買にも注力していく考えだという。
「もちろん、飲食が主要な事業であることはかわりありません。ただし、飲食でいただく『ありがとう』とおなじ、『ありがとう』を違った仕事でもいただけるようにして、幅を広げていきたいと思っているんです」。
飲食をやりがなら多様なビジネスにチャレンジする。
その発想と行動力がいかにも新時代の経営者らしい。
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