株式会社ひらまつ 代表取締役兼CEO 遠藤 久氏 | |
生年月日 | 1960年7月2日 |
プロフィール | 早稲田大学卒。日本マクドナルド株式会社に新卒入社。店長・エリアマネージャーを経験し、東京エリアの統括マネージャーとして活躍した後、米国マクドナルドでの駐在経験を経て、帰国後に執行役員就任。同社退職後、数社で社長など要職を経験し、2020年6月より、日本国内でレストラン事業、ブライダル事業、ホテル事業を展開する株式会社ひらまつの代表取締役社長 兼 CEOに就任する。 |
主な業態 | 「メゾン ポール・ボキューズ」「リストランテASO」「高台寺 十牛庵」「THE HIRAMATSU 軽井沢 御代田」他 |
企業HP | https://www.hiramatsu.co.jp/ |
鼻高々に向かったアメリカで四面楚歌に遭った。唯一の理解者のはずの、家族からも、そっぽを向かれた。
「日本マクドナルドからマネージャーとしてアメリカに渡ります。全従業員の中から選ばれたのですから鼻高々です。しかし、イメージとは、全く異なる世界が待っていました」。
店では、アルバイトのメキシカンに軽くいなされた。駐在に同行した奥様からは、毎日のように「日本に帰りたい」と言われた。
「けっこうきつかったですね。でも、いい試練になりました。日本で仕事ができていると思っていたのは大間違いでした。私ではなく、私の役職が仕事をしていただけ。それに気づけただけでも財産になった気がします。所詮日本から来たマネージャーなんて、アメリカ人にとっては偉くもなんでもない。シンプルに仕事ができるかどうかなのです」。
最初に会話を覚えたのは、英語ではなく、片言のスパニッシュ。「簡単なコミュニケーションです。仕事ができることを示しつつ、同時に言葉を交わしていくと、だんだんと心を開いてくれました」。
ようやく仕事の仲間から認められて、世界が変わり始める。
奥様の日本へのホームシックははどうだったのだろう?
「日本にいた頃は、家族よりも、仕事優先でしたからね。それで良いと思っていました。しかし、アメリカに来て、それでは良くないことに気づいたのです笑。そういう意味では、わたしの家族にとっても、この時のアメリカ生活はなくてはならないものだったように思います」。
当初、毎日のように「帰りたい」と嘆いていた奥様は、帰国時には一転、「日本には帰りたくない」とアメリカの環境にすっかり慣れ親しんでいたらしい。きっと、渡米を機に得た家族の時間を失いたくなかったのではないだろうか。
ちなみに、遠藤氏は赴任してから2年後にはゼネラルマネージャーに昇進している。
「どうしてもマクドナルドの話になってしまうなあ」とご本人。遠藤氏の今はマクドナルド時代を抜きには語れない。ご本人は、「創業者の藤田さんとプロ経営者の原田さんという、2人の偉大な経営者にお仕えした、数少ない人間です」という。
ちなみに、日本マクドナルドが銀座に一号店をオープンしたのは、遠藤氏が11歳の1971年のこと。当時の人たちにとって、アメリカから来たハンバーガーは自由の象徴だったのではないか。
それまで馴染みのないファーストフードという食文化の開国でもある。
「私は1960年7月、東京に生まれました。東京生まれ、東京育ちです」。大学は早稲田大学。「私は格闘技やラグビーなどのスポーツが好きです。ラグビーは、高校から始め、本当は大学でも続けたかったのですが、一浪したこともあり大学ではサークルレベル。それでも、ラグビーで学んだチームで何かを成すということは今の私の信条にもなっています」。
日本マクドナルドには新卒で入社。
当時、飲食業の企業を就職先に選ぶ大学生は少ない中、なぜマクドナルドを選んだのか。
「サービスに携わる職業が良いと考えて、百貨店など数社から内定をいただいていたのですが、マクドナルドの面接を受け、マクドナルドの『ピープルビジネス』への考えに感動してしまって。それからは、日本マクドナルド一筋でした笑」。
マクドナルドは採用面接を受ける学生にもお客様扱いだったと、他社の選考で受けた印象との違いを語る。当時は、縁故採用が盛んで、採用活動も今のようにスマートで公平なものではなかった。応募者に対し、お客様のように接する企業は少なかったはず。マクドナルドは、採用でも、時代に先行していたのかもしれない。
「当時は積極出店の頃ですからね。新卒だけで400人はいました。アルバイト上りが6割、外部採用が4割ほど。アルバイト経験者は、ファーストマネージャーまで昇進できるのですが、その先の昇進ではやはり差がついていましたね」。
遠藤氏自身は5年サイクルで昇進を繰り返していたらしい。ちなみに、新卒同期で唯一の執行役員就任。日本マクドナルドの栄光の時代、苦戦の時代、そして奇跡の回復も経験してきた。
「2001年から2004年までアメリカにおりました。当時、本国のマクドナルドも日本流のやり方だけだと限界が来るとわかっていたのでしょうね。アウト・オブ・ザ・ボックスが必要だということで」。
その中で、遠藤氏の渡米は、日本法人の従業員を育成する計画の一環だったのかもしれない。「実際、いろいろ気づかされるのですが、マーケティングや、グローバル人材としての教育も受けました。実をいうと、妻だけではなく、私もアメリカが気に入って、こちらでの生活を続けたいと思い始めていたのです」。
本国のマクドナルドの不安が的中し、日本マクドナルドの業績が傾きはじめる。次期社長に、アップルコンピュータから原田泳幸氏が招聘されたのはこの頃。「アメリカで原田さんとお会いして、色々お話しているうちに、日本に戻ってこい、と笑」。
日本に戻り、本国仕込みの仕事を行い、昇進・昇格を繰り返し、役員へと登り詰める。
「50歳になった頃ですね。日本マクドナルドが、世界のマクドナルドの一部のようになっていったものですから、有能なグローバル人材が次々採用され、重要なポストに登用されていくのです。私自身、もう50歳ということもありましたし、この中でトップは狙えないなと判断して退職を決めました」。
こうして日本マクドナルド時代でのキャリアは終焉を迎えるが、マクドナルド的な経営学は実践を通し、からだの隅々まで沁み込んでいる。
そして、ここからの遠藤氏の経歴もまたすごい。
2013年〜2014年、株式会社すかいらーくで執行役員に就任。2014年〜2017年、株式会社スイートスタイル、代表取締役社長として初めて社長を経験、その後、2017年〜2019年、エムアイフードスタイル、代表取締役社長。そして、2020年6月から現在の株式会社ひらまつの代表取締役兼CEOに就任する。
株式会社ひらまつは、1982年創業。1軒のフランス料理店から始まり、レストラン事業・ブライダル事業を全国展開し、東証一部上場を果たす。その後、2016年よりホテル事業にも参入し、現在では外販事業も加わった4つの主力事業を推進する日本の外食産業をリードする企業だ。しかし、コロナ禍の下、『ひらまつ』も順風満帆ではなかったということだろう。
2020年6月、同社は遠藤氏に、これからの『ひらまつ』を託すことになる。
「60歳になった頃からですね。日本の経済の活性化と地域創生、後継者の育成を手掛けたいと思うようになってきました。その頃に『ひらまつ』から声が掛かり、上場企業というチャレンジングな経営環境で仕事ができること、食を通じて地域創生ができること、後継者育成ができることと、私のやりたいことが揃っていましたので快諾しました」。
『ひらまつ』からのオファーを受けるにあたっては、「今のひらまつは何かとリスクが大きいのではと周囲から指摘されることもありましたが、私としてはリスクより可能性、ポテンシャルのほうが大きい」と捉えました。「私は、『ひらまつ』がもつ価値の中で、レストランやホテルはもちろんですが、ブライダルに非常に期待を持っています。コロナ禍を経験し、お客様の価値観にも変化が生まれ、時間への考え方や誰とどのような時を過ごすかといった価値がいよいよ重視される時代になったように思います。その中で『Life Time Value(ライフタイムバリュー)の創造』を事業間を超え、一気通貫で実現できるのが、『ひらまつ』という企業であると考え、その点に注力していこうとしています」。
さて、今後の『ひらまつ』がどういう道を進んでいくのか、それもまた楽しみ。
遠藤氏は「やるべきことを知っている(knowing)」と「やるべきことをやっている(doing)」は、同じではないという。価値を作る(創る)ことと、価値を伝える(売る)ことも同様だ。「シンプルにいえば、このGAPを取り除き、解決するのが、私たち経営の仕事なのです」。
この話を聞くとますます期待が高まる。ピープルビジネスの極意を知る遠藤氏が”勝てるチーム構築“を実践し、『ひらまつ』ならではの価値提供を通じ、さらなる発展をぜひ実現して欲しい。
1984年〜2000年 日本マクドナルド入社 |
2001年〜2004年 米国マクドナルド シカゴ駐在員〜米国本社マネージャー |
2005年〜2012年 日本マクドナルド 本社部長〜本部長 / 執行役員 |
2013年〜2014年 株式会社すかいらーく/ベインキャピタル 執行役員 |
2014年〜2017年 株式会社スイートスタイル 代表取締役社長 |
2017年〜2019年 エムアイフードスタイル 代表取締役社長 |
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