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第930回 株式会社せんざん 代表取締役 榎本正勝氏
update 23/04/04
株式会社せんざん
榎本正勝氏
株式会社せんざん 代表取締役 榎本正勝氏
生年月日 1965年12月25日
プロフィール 高校卒業後、料理人を志し、関西の調理師学校に進む。アルバイト先の飲食店に就職したあと、2年後、京都のホテルへ。こちらで料理の基礎を学び、料理割烹という新天地へ。結婚を機にして関東にもどり、「せんざん」に入社。創業者とともに、「せんざん」を育て、2022年、社長に就任する。
主な業態 「せんざん」「かつ泉」「熱烈カルビ」「海風季」「MALIBU」他
企業HP https://www.senzan.co.jp/

料理づくりが楽しくて。

1965年12月25日、神奈川県に生まれる。川崎大師のちかくだったそう。3歳の頃に相模原に引っ越し、18歳まではそちらで暮らした。実家は、お豆腐屋さん。
「相模大野の新興住宅地で、店舗と住まいがいっしょでした。スポーツは、野球です。ファーストで4番。ただ、小学校を卒業する時に肩を痛めてしまいます」。
中学は15クラスあった。マンモス校だ。
「野球部も見学するんですが、同級生だけで80人。これは、だめだと思って、ともだちに誘われた卓球部に入ります」。もっともこちらも100人規模。とにかく生徒数が多い。
選手は多かったが、もともと運動神経に恵まれていたんだろう、1年時に、代表に選ばれ、新人戦に出場している。
「あの時は、『オレってけっこうやるじゃん』なんて思っていました。ただ、しばらくして、また怪我をして練習もできなくなります。からだを動かすことも禁止されていましたから、くさってしまいました」。
いったん部活を辞めようとも思ったが、顧問のアドバイスで思いとどまり、2年の夏以降少しずつ練習にも参加するようになったそうだ。だが、からだが思うようには動かない。「その時、ともだちが練習後に、町の卓球場に付き合ってくれて。やっぱりそういう友情は、かけがえのないものですよね」。
卓球に打ち込む一方で、じつは、高校に進まず料理の道に進もうと思っていた。
「お豆腐屋さんの朝は早いんです。もちろん、弁当などはつくってくれていたんですが、少し大きくなってからは、朝ごはんをつくるようになって。すると、これが、けっこう楽しい(笑)」。
もっとこうすればいいんじゃないかと、工夫を重ねる。それがまた楽しい。
「家族も『旨い』っていってくれて。楽しいことをして、周りも喜んでくれる、そういう料理の世界に憧れ始めます」。
決意は固い。中学を卒業したら、すぐに料理の世界に進むつもりでいた。しかし、高校に進学するものと思っていた母親に泣かれて、しかたなく、私立高校に進む。
高校でも卓球部に入ったが、それほど熱が入らない。
「個人では、それなりの成績を残しましたが、チームはぜんぜんでした。部活以外ですか? そうですね。もともと勉強は好きじゃなかったので、もっぱらアルバイト。もっともうちのお豆腐屋さんが主な仕事場だったわけですが」。
お金をためて買ったオーディオセットは、少年、榎本氏の宝物。

修業開始。

ご両親の反対がなければ、16歳の頃には包丁をにぎっていたはずの榎本氏。やるなら和食がいいと関西の調理師学校に進んでいる。
どうして、関西だったんですか?
「和食は、関西のほうが、歴史があるし、親元からも離れたかったので(笑)」。
「今度は、学校でも勉強しましたし、和食のお店でアルバイトもさせていただいて、こちらでも勉強させてもらいました」。
じつは、そのアルバイト先に就職している。
「2年くらいですね。大阪の梅田のお店でした。ただ、和食と言えばやはり京都。いつか京都で仕事をしたいと思っていました」。
人のご縁で希望がかなって京都のホテルで勤務を開始する。「ザ・料理人」の世界が広がっていったと胸を膨らませる。料理長がピラミッドの頂点、絶対的な権力者だった。「今なら、パワハラで、アウト」と笑う。
「朝の2〜3時から朝食の準備がスタートします。仕事が終わるのは22時なので、睡眠時間もそうありません。ホテルなので、給与はまだ恵まれていましたが、みんな辞めていきました」。
辞めていくというより、逃げ出すといったほうが正しい表現なのだろう。ただ、榎本氏は、違っていた。「『頼まれ事は試し事』っていうでしょ。たぶん、部活でも、何でもいっしょだと思うんですが、先輩や上司に何か言われたら、試されているんだと思って、すぐに取り組むように心がけていました」。
練習もした。深夜の厨房は榎本氏の、オンステージ。
「自分で食材を買ってきて、みんなが帰ったあと練習しましたね」。
海老天に花が咲く。「あれも、このホテルならではの、美しく仕上げる方法があって」と榎本氏。だし巻き卵も、何度も繰り返し、焼いた。
「私が深夜に練習しているのを耳にされたんだと思います。ある時から私にだけ料理長自ら指導してくださるようになったんです」。
見込まれた?
「どうでしょうか? ただ、かわいがっていただきましたし、不思議なことに、私は手をあげられたこともなかったですね」。
もっとも榎本氏は、ただのイエスマンではない。むしろ、逆だった。
「おかしいことはおかしいとハッキリと口にしていました。ひょっとしたら、そういうところも評価いただけたのかもしれません」。

割烹へ。お客様との言葉のキャッチボールが榎本氏を魅了する。

「スタッフが休みだって、料理長はおかまいなしです。『なんであいつがいないんだ』って。急に呼び出されたりするんです。さすがに、理不尽だし、シフトもなかったので、朝から夜までずっと仕事。やっていられない、というスタッフの気持ちもわかります。だから、とにかくシフトを組みましょうと、打診させてもらいました」。
鍋がとんでくるかと思っていたが、案外、簡単に了承されたそう。ただ、これが、のちに一つの事件を生む。ただし、そちらは本題ではない。
「目をかけていただくようになって、いろいろ仕事も紹介していただきました」。
仕事?
「ヘルプという奴です。私が休みの時に、あっちに行け、次はこっちへ、と。京都市内や滋賀県などの和食店で仕事をさせていただいた。それも、今の財産になっています」。
1日行けば、3〜4万円の日当がでたらしい。だから、文句もない。「濃厚な2年間でした。私の料理人の骨格ができたのは、間違いなくこちらのホテルです」。
「次は、大阪の梅田にあるカウンターと座敷の割烹料理店で仕事をします。大きな店じゃなかったですが、調理場を3人で回していましたから、それも経験になりました」。
カウンター初デビューですね?
「そうですね。カウンター越しにお客様の表情をみる、料理人にとっては、ある意味、最高の世界です。でも、いきなりお客様から叱られてしまって、あの時はけっこう凹みました」。
「その方は常連さんで、お好きなビールの銘柄があったんですが、それを知らずに、『どれになさいますか?』って聞いちゃったんですね。関西の、常連さんはキツイです(笑)。でも、そういうことがあって、食器には盛ることができない、おもてなしも大事なんだと知りました」。
「経済新聞も読みました。経済や政治がわかっていなくっちゃ会話もできないですからね」。
いつしか大企業の部長クラスとも会話が弾むようになっていた。それも財産。関西の数年間は、榎本氏を一人前の料理人にするのに十分な時間だったのかもしれない。

部下が育つとやることがない。

結婚を機に関東にもどる。「当時、『せんざん』はまだ2店舗でした。会社を起業されて3年くらいの頃です」。知人の紹介だったらしい。
「3社くらい面接が進んでいたんですが、知人の紹介ということもあって、受けてみることにしました」。
いかがでした?
「最初から衝撃的でした。当時の社長(のちに会長。2022年7月に亡くなられている)と私は、12歳、離れているんですが、社長の言葉一つひとつがすごく心に刺さりました」。
「当時の私は、『5年後に独立する』なんていっていましたが、明確な目標だったわけではありません。私の話に耳を傾けてくれたうえで、社長はぜんぜん違うことを言います」。
「当時、料理人は、社会的に下にみられていたんです。そりゃそうですよね。新聞といえば競馬新聞か、スポーツ新聞。時間があけば、パチンコです。だから、下にみられても当然、だったんですが、社長は、そんな世界をひっくり返すっていうんです。料理人の社会的なステイタスをあげる、それが、私の使命なんだと。考えてるスケールが違うんです。圧倒的な差です」。
この会社は必ず成長すると、冷静な判断もしたそうだ。ただ、それ以上に社長に魅了される。すぐにお世話になることを決断したそうだ。
「せんざん」には、「海鮮茶屋」というショルダーがつく。ホームページをみれば、新鮮な海鮮料理が目にとびこんでくる。宴会需要も取り込める大箱。いままでとは異なるステージだった。
「楽しくさせていただいたんですが、5年目の頃に、一度、退職願を書きました」。
どうしてですか?
「料理長になっていましたから、部下を育てるのが私の仕事でした。ただ、部下が育つとやることがない。オープンもなかったので、私が『せんざん』でやることがなくなっちゃったんです(笑)」。
「店をやらないか」という誘いもタイミングよくあったそう。
「ただ、社長に退職願を持って行ったら、泣かれてしまって。それで思いとどまりました。泣かれたら弱いのは昔からです(笑)」。
じつは、2人して泣きながら会話をしたそうだ。「私にとって、あんな人はほかにいないですよ。真剣に話してくださる社長をみて、私も目頭が熱くなって」。
翌月、榎本氏は店長に任命される。料理ではトップだが、店長の経験はない。
「何かにチャレンジさせておかないと、風船のようにどこかに行ってしまうと思われたんでしょうね(笑)。もちろん、ホールも、店長も初めてですから、わからないことだらけ。頼りなかったんでしょう。パートさんを含めて、みんなが私を助けてくれるようになりました。『店長、こうしたほうがいいですよ』『それより、こちらのほうがいいです』って。じつは、そのおかげで、みんなが一つになれた気がします」。
気が付くと売り上げが驚くほどアップしていた。
それからも、新ブランドの立ち上げなどに駆り出される。いつしか社長にとっても、榎本氏にとっても、互いになくてはならない存在になっていた。
榎本氏を社長に、社長がそう思ったのも、当然のことだろう。

会長が残した宿題。

榎本氏は2022年5月に「せんざん」の社長に就任。社長は、会長となる。じつは3年前から決まっていたそうだ。「社長には、ご長男もいらっしゃいますから、ご長男を育てるという意味合いも込めて引き受けさせていただきました」。
準備期間があったとはいえ、社長の椅子は重い椅子だ。とくにコロナ禍のなか、ハンドリングは今まで以上に難しい。
「グループでは10のブランドがあり、店舗数も私が入社した頃から比べれば、段違いです。これだけの会社を動かしていくのは、醍醐味はありますが、やはり難しいですね。しかも、もう一つ、料理人のステイタスを上げていかないといけない。だから、躊躇しているわけにはいきません。まだまだ挑戦です」。
はじめて料理の道をあゆみだした時のように、思いはピュア。
料理人のみならず、全従業員のステイタスを上げ、明るい未来に導く。それは、恩のある会長が、榎本氏に残した宿題の一つ。宿題に取り組む、榎本氏を上空からみてニヤリとされているかもしれない。

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調理人時代 社内パーティー 2022年決起大会
 

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