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第933回 株式会社TOKITOU 代表取締役 時任恵司氏
update 23/04/25
株式会社TOKITOU
時任恵司氏
株式会社TOKITOU 代表取締役 時任恵司氏
生年月日 1984年3月9日
プロフィール 中学卒業して、鰻の名店「野田岩」に就職。15年、修業をつづけ、パリ支店で料理長を務めるなど、幅広く活躍。30歳の時に創業店「銀座時任」をオープンするが、振るわずにクロース。2年の時を経て、ホームグラウンドである麻布十番に「うなぎ時任」をオープン。大ブレイクを開始する。「鰻フレンチ割烹」は登録商標済。
主な業態 「うなぎ時任」
企業HP https://tokitou-unagi.jp/

父の料理と、少年の未来と。

中学1年の夏に就職先を決めたと聞いて耳を疑った。中学1年といえば、まだおさない少年だ。将来を決めるには、さすがに早すぎる。戸惑っていると、「まちがいなく、中学1年の夏休みです」と笑う。
今回ご登場いただいたのは、日本の伝統料理の一つである鰻とフレンチを融合させた稀代の料理人、「うなぎ時任」のオーナーシェフ、時任恵司氏。
「兄弟が4人いて、私は3男。男ばかりですから、兄弟喧嘩もしょっちゅう。とにく、次男と私は11ヵ月しか離れていないこともあって、毎回、やるか、やられるかの壮絶なたたかいでした笑」。
小学1年生の時には、とつぜん、住む家がなくなったそう。昭和20年代生まれの人の話ではない。時任氏は1984年生まれ。経済がバブルに向かってまっすぐに進んでいた頃。だから奇異な話に映るかもしれないが、ほんとうらしい。1ヵ月ちかく、家族みんなで民宿生活を送っていたという。むろん、優雅とはほどとおい。
スポーツはなにかされていましたか?
「柔道です。あれがいちばん、お金がかからない笑」。
お金はなかったが運はいいと時任氏はいう。生まれてすぐ大病をわずらったが、奇跡的に助かっている。
「勉強は、ぜんぜん、できませんでした。ともだちにも、勉強ができない奴というレッテルを貼られていた気がします。次男と11ヵ月ちがいなので、同学年なんですが、彼は私とちがって勉強ができたんです。だから、譲ったんです」。
何を、ですか?
「進学です(笑)。2人いっしょに進学するお金はさすがになかった。私は勉強がいやだったし、進学する意味もわからなかったから、高校はいかなくていいと」。
本心だったんだろうか?
「もちろん、本心です。とにかくあの頃は、勉強するのがいやで、いやで(笑)」。
今では、経営に関する難しい本も読む。「あの頃は、勉強する意味もわかなかったっていうのが正直なところです。勉強と仕事を天秤にかければ、そりゃ、傾くのは仕事へ、でしょ。だって、勉強から解放されて、お金が儲かるわけだから」。
たしかに、たしかに。ところで、どうして、飲食だったんですか?
「小さな頃、父親が卵焼きをつくる様子をみて、かっこいいな、と、そういう原体験があったので、就職するなら飲食だと。鰻は、もちろん想像外のジャンルでしたが」。

鰻重に心を奪われた少年の選択。

中学を卒業した時任氏は、創業から200年以上つづく鰻の名店に就職する。「麻布 野田岩」。政治家をはじめ、著名人のなかにも贔屓客は少なくない。
名店に就職できたのは強運の証だが、そのぶん、仕事は生ぬるくない。
「きつかったですね。同期はつぎつぎ辞めていきました。でも、私は絶対、逃げ出さないと決めていました。ここで、投げ出したら終わりというか。仕事はたいへんでしたが、たぶん、逃げ出すことのほうが怖かったです」。
15年、その道はつづく。
「東京に来て初めて暖簾を潜ったのが『野田岩』さんでした。ちょうど昼ちかくだったこともあって、面接が終わると『たべてけ』と鰻重をだしてくださったんです」。
時任氏は中学1年の夏を思い出して目を細める。
「料理を食べて感動するってあるんですね。もう、『旨い』が、波のように押し寄せて」。
箸がとまらない?
「そう。ただ、あの時は、『すげぇ、旨い、旨い』だけで。あとになって思うと和食や洋食ってコースじゃないですか。全体のバランスでしょ。前菜があって…。でも、鰻は『鰻重、ハイ、どん!』(笑)」。
「むちゃくちゃシンプル。言い訳が効かない。やり直しもない。旨いか、どうか。イチかゼロ。もうちょっと言えば、それ一杯で、感動させられるか、どうか」。
潔さに惚れた?
「そうですね。そのあと、面接いただいたお店は申し訳ないことに記憶にないんです。ボーとしていて」。
鰻重が頭から離れない?
「心を打たれた初めてのお料理が『野田岩』の鰻重でした」。
なんとも贅沢な話ではある。むろん、帰路につく頃には、もう、心は決まっていた。これが、『野田岩』との出会い。やるか、やらないか、ある意味、壮絶な人生の始まり。兄弟げんかの比では、もちろんない。

うなぎ職人の朝は、早い。

オーナーは朝4時半に出勤する。だれもいない店で、仕込みを開始する。それが日課だった。神聖な、その時間を奪ったのが時任氏だった。
「先輩らは、だいたい7時に出勤します。でも、私はオーナーが出勤される前の3時に出勤しました」。
早朝。まだ、薄暗い。冬は、室内まで凍てつている。独りの神聖な時間に踏み込んできた少年を、オーナーは拒否しなかった。
15歳にして、オーナーすらライバルだと言い切る、切れ味の鋭いナイフのような少年に、オーナーは何をみて、横に立つことを許したのだろうか。
鰻をさばくスピードが先輩たちを追い抜き、いちばんになるまで、そうかからなかった。
「先輩らが来るまで2時間以上、オーナーを独占しています。四六時中、鰻が頭から離れません。1日、1000〜1500を焼き上げるわけですから、さばく仕事をしている私らにスピードがないと、つぎの工程がうまく進みません。だから、評価もいただきました」。
オーナーも、少年に目をかけていたのは、間違いない。25歳で、料理長も任されている。ただし、朝3時からスタートして、夜11時まで。帰宅して、風呂に入って、文字通り、バタンキュー。フリータイムもない。できる人も、それを望む人もたぶんいないが、時任氏には、それが、ルーティンになる。15年、そのルーティンは破られたことがなかった。
「だんだんと、みんながあいつはそういう奴という目で私をみるわけです。そうなると『やめた』とは言いにくくって(笑)」。
ふつうなら高校に進み、そして、大学に進学。大学でふざけ、笑い…、就職時には、御社は…とやる。だが、時任氏は、毎日、毎日、ひたすら鰻に向かった。
ちなみに、皮がぬるぬるして滑りやすく、小骨が多い鰻は、技術を習得するのが難しいといわれている料理の一つ。繊細な料理でもある。
その料理をマスターする。成人式に現れたのは、もう立派なうなぎ職人だったにちがいない。スポーツなら金賞、間違いなし。
ただ、少年は、うなぎ職人だけをゴールにしていたわけではなかった。

起業へ。だが、道は険し。

「野田岩では、オーナーに師事できたのはもちろんですが、野田岩ではたらいているというだけで、著名な方々とお話ができたのもラッキーでした」。
深夜、時任氏はある資産家に進められた通り、港区の高級バーに顔をだす。「『新橋でともだちと安いビールを飲むんじゃなくって、港区で1杯1000円のビールを飲みなさい』とアドバイスされたんです」。チャージ代を含めれば合計2000円。薄給の時任氏には、痛い出費。だが、常連になる。「常連といっても、一杯だけ。それで長時間いるわけですから、迷惑な客です(笑)」。
時任氏の人柄もあったのだろう。若さもあったのかもしれない。野田岩の効力かもしれない。「みなさん、さすがに、ご存じなんですよね。野田岩で、というだけで興味をもっていただいて。私もまだ20代でしたらか、ギャップもあったんでしょうね。感心され、がんばりなよって」。
人脈が広がる。じつは、起業の背中を押してくれたのも、バーで知り合った恩人の1人。名前を聞くと、だれもが知っている有名な経営者だった。
「野田岩を卒業しようと思い始めたのは、27歳の頃から。昔のようには感動できなくなったことも理由の一つです。もちろん、30歳で独立と決めていましたから、それが、いちばんの理由なんですが。兎にも角にも、支援もいただき銀座でスタートします。ところが、これが、ぜんぜんだめだったんです」。
それはないだろうと、質問を重ねたが、事実。つまり、「うなぎ時任」にも、閑古鳥が鳴いていた時代があったのだ。
「価格なども含め、銀座にはマッチしなかったんでしょうね。コンセプトもできあがっていなかった。そういう意味でビジネスは難しいです」。
16歳から30歳までの、修業のすべてをぶつけたが、客の心をわしづかみにはできなかった。「最初の3ヵ月はまぁ、いいかなという感じだったんですが、4ヵ月目から、がくっと落ちちゃって」。
野田岩では、客がいない日はなかった。初めての経験。
「当時はたしかに凹みましたが、私にとっては、それまでとは違った意味で重要なイベントだった気がします。おかげで今までを、ゼロリセットできたわけですから」。
挫折?
「そういうのは、あったかもしれないですが。鰻は私の軸だし、もう一度、チャレンジする志も揺るがなかった。ただ、もう一度、ゼロからいろいろみてみようとは思いました。だから、2年間くらい、あっちこっちで仕事をさせていただいたんです」。
どこに行っても、3日くらいで料理長になれると言われたそうだ。時任氏がいうように、この2年間の意味は大きい。時任氏の守備範囲の広さや深さは、この2年間があったおかげだろう。
ところで、「うなぎ時任」の代名詞である、フランス料理との融合は、どこから始まったのだろう。「野田岩には、支店がいくつかあるんですが、じつはパリにも支店があって、そちらで料理長を務めた経験があるんです。みなさん、鰻って言ったら、日本だけのお料理って思っていませんか? じつは、ヨーロッパでも、ちゃんと鰻の料理はあるんですよ」。
調べてみると、たしかに、フランスだけではなく、ベルギーでも、デンマークでも、イギリスでも、それ以外でも、鰻料理があった。
料理の方法は異なったが、世界は、ちゃんと旨いものを知っている。ともかく、2年の雌伏の時を経て、再チャレンジがスタートした。

1年目で、百名店に選出される。文字通り名店の仲間入り。

ここから先は、有名店だけにみなさんもよくご存じだろう。麻布十番にオープンした鰻フレンチ割烹「うなぎ時任」。麻布十番は、時任氏にとってホームグラウンド。カウンター8席と個室6名。オープン時は2万円コースのみだったおいう。今もコースがメイン。おすすめの「お任せキャビア付きコース」は2万8000円(2022.12)。「鰻フレンチ割烹」は、商標登録済。
「もっともこちらも最初は、苦戦していたんですよ。でも、ある雑誌のおかげで、ブレイクします。紹介してくださったタレントさんは、うちにとってまさに神様です(笑)。そのあと、雑誌はもちろん、TVやラジオでも、取り上げていただきました」。
ある雑誌はきっかけにはなったが、それをいかしたのは間違いなく時任という稀代の料理人。時任氏が、修業した15年をわずか数分でいただく、これほどの贅沢はほかにないだろう。
ところで、鰻を資源とすれば、不漁がつづく年もある。完全な養殖はまだできていない。時任氏は、今、そこにも切り込んでいる。鰻の放流などはその一例だ。日本の恒例行事、土用の丑の日にもくぎを刺す。
「だいたい鰻がいちばんおいしい、つまり旬は、10月〜11月なんです。土用の丑の日に鰻っていうのは、商業がつくりだした旬。だから、本来の旬ではなく、その意味では間違っているです。でも、日本ではそれが定番。みんながみんな、その日に一度に鰻を食べるから、資源がなくなっちゃうんです」。
「うなぎ時任」は、間違った習慣にのって儲けようとしない。時任氏が薄っぺらい人間でないことの証でもある。ちなみに、これもご存じの人が多いだろうが、麻布十番にオープンした「うなぎ時任」は、1年目で百名店に選ばれている。むろん、快挙だ。
それにしても、グルメサイトでも、「うなぎ時任」の評価は高い、高い。いずれ、その評判も知らずに、おとずれたいがぐり頭の少年が、その一口に感動して人生を決める、そんなシーンがあるかもしれない。

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