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第942回 株式会社ヤマナミ麺芸社 代表 吉岩拓弥氏
update 23/07/04
株式会社ヤマナミ麺芸社
吉岩拓弥氏
株式会社ヤマナミ麺芸社 代表 吉岩拓弥氏
生年月日 1978年11月7日
プロフィール 大学卒業後、いったん就職するが、1年で退職し、家業のサポートを開始する。25歳、父親が急逝。7億円の借金を背負うことになったが、「最初で最後の親孝行だ」と、事業を継承、社長に就任する。
主な業態 「らーめん工房ふくや」「味噌乃家」「麺堂香」「太一商店」他
企業HP https://yamanami39.com/

大学時代までの吉岩氏。

ラーメンが大好きで、大学時代は福岡中心に東京や大阪にも遠征してラーメンを食べ歩いていたそう。今回、ご登場いただくヤマナミ麺芸社の代表、吉岩氏のことである。
吉岩氏は1978年、大分県別府市に生まれている。
お父様が事業家で、1994年に「株式会社ヤマナミ麺芸社」の前身である「ゴールドプランニング株式会社」を設立。「ラーメン工房 ふくや」や「麺堂香」といったラーメン店を経営されていた。
「父親はそれ以外にも様々な事業をしていました。子どもの頃からそういう父親をみてきましたから、社長という仕事に憧れていたように思います」。
その思いは卒業文集にも綴っている。
小学校から野球をしていたと聞いていたので、野球選手じゃなかったんですね?と尋ねてみた。
「そうですね笑。父親を近くでみていましたからね。プロ野球選手より父親のほうがかっこよかったのかもしれません。野球は、弟と一緒に小学校からはじめ、高校卒業まで続けています。高校は公立ですが文武両道の進学校。私は野球部で副キャプテンを務めていました」。
ちなみに、弟さんとは現在も一緒にはたらいている。吉岩氏と違って職人タイプなんだそう。二人ならべば凸凹コンビで、弟さんは吉岩氏より15センチ以上も高い。
高校生活はいかがでしたか?
「楽しかったです。部活に遊びに、時々、勉強って感じでしょうか笑。もっぱら部活と勉強だったら、文字通り文武両道だったんですけどね笑」。
遊びが過ぎたのだろうか? 遅刻が多くて関西大学の推薦をのがしている。
大学はどちらに?
「やっぱり東京とかにでたいと思っていたんですが、推薦も取れなかったもんですから、九州産業大学に進みます。この大学は父親も通っていた大学です」。
親子二代ですね?
「そうなりますね。父親と違うのは、ラーメンを食べ歩いていたことでしょうか」。

学生時代のワンシーン。古着の買い付けに、アメリカへ。

最初はラーメンではなく、古着屋だったらしい。大学時代のことだ。
「じつは、父親はラーメン店以外にも、いくつもの事業を行っていました。古着屋も、事業の一つとして始めたんですが、うまくいかなかったのか、すぐにやめてしまいます。ただ、その仕事をかじった私が魅了されてしまって」。
20歳だから、1998年の頃の話ですね?
「大学3年生の頃です。父親のサポートをしている時に、ある店長に出会うんです。同い年だったんですが、私なんかとは比べられないほど大人で、将来独立するんだという志をもち、生計ももちろん、立てています」。
それが、古着屋をするきっかけ?
「正確にいえば、その店長の生き様に影響されたのがきっかけですね」。
店長と親しくなった吉岩氏は、店長と一緒にアメリカに渡り、レンタカーを借り、フリーマーケットなどを回り古着を買い付けた。安いモーテルで宿泊する、それ自体、刺激的だったという。
「アメリカで買ってきたものを業者に卸したり、フリーマーケットやヤフーオークションでセールスしたりしていました。店長はそれで生計を立てていたわけですが、私は、ただで海外に行けて、少しだけお小遣いがあればいいくらいの気持ちでした。だから、まだまだ緩い人間だったんです」。
どんな商品が売れましたか?
「いちばん儲かったのは、ヴィンテージのジーンズですね。5万円で仕入れたものが15万円で売れました。もっとも当時は古着ブームでしたから、100円のTシャツが2000円になったりもして。ただ、しばらくして古着ブームが去ります。それで今度は韓国に渡ってシルバーアクセサリーを買い付けるようになりました」。
アジアン雑貨もされていたそうですね?
「そうです。シルバーアクセサリーは中州の路上でセールスしていたんですが、『シマがある』と、あちらの方から教えられたので、こちらは撤退笑。それで、つぎはタイに渡って、アジアン雑貨を仕入れセールスするようになります。それなりにマジメにやっていたつもりですが、さっきもいったようにお小遣いになればいいくらいに思っていましたから、ビジネスといえるスケールではなかったですね」。

最初で最後の親孝行。

いったん会社勤めをした吉岩氏だったが、半年で退職し、父親の下ではたらきはじめる。業績が悪化した父親の会社をサポートするためだ。
「昔から借金があったことはわかっていましたが、いろんな事業の業績が落ち込み、3店舗あったラーメン店もふるわない。もちろん、私がもどっても、すぐにV字回復できるほど簡単な話じゃありませんでした」。
そりゃ、そうだろう。古着屋で才覚をみせた吉岩氏だが、趣味の範疇にすぎなかったとも言っている。
「業績がなかなか好転しないなか、私がもどって2年くらい。私が25歳の時に、父親が急逝してしまいます。もちろん、ショックでしたし、悲しみは尽きませんでしたが、その一方で、残された借金をどうすればいいのか。私より早く入社していた弟といっしょに頭を抱えます」。
「どうする?」「どうすればいい?」
兄弟が話し合ったのは久しぶりのことだった。
「中学校くらいから口を聞かなくなっていましたから。性格も違いますし、どこかに溝があったんでしょうね。ただ、山ほどの借金を抱えて、溝があるなんて言ってられなくなりました。『最初で最後の親孝行だ』と2人して、心を奮い立たせました」。
「今、私があるのも、弟のおかげだし、弟もたぶん、そう思ってくれているはずです」と吉岩氏はいう。
ところで、最初で最後の親孝行はどうなっていくんだろう?
「ほかの事業は畳んで、ラーメン1店舗だけにすればいいとアドバイスをくれる人もいたんですが、昔から負けん気が強いというか、そう言われると、逆に『なにくそ』となっちゃって」。
結局、ラーメン3店舗を継承する。
日銭にかかわらずラーメン店も赤字だった。
銀行はすぐに駆け付けてきた。
「ああいう時は、行動が早いですね笑。私らは事業を継承したことで7億円の借金を背負います。大分駅前に5億円で購入したビルの利息が大きいかったですね。その頃には、価値が下がり、売ろうにも売れない状態でした」。
船長はもういない。しかも、V字回復はまったなし。

豚骨と、豚骨以外。ラーメンのバリエーションは、無数にある。

立て直しには、2年ちかくかかったと吉岩氏。スープを含め、聖域なき改革を推し進めたそうだ。
「私ら兄弟が経営者になったことで、古参のスタッフが辞めていきました。残念なことですが、皮肉なことに人件費の比率が下がって赤字が解消されます。今、振り返ると5〜10店舗までがたいへんでしたね。ヒト、カネ、モノ、全部なかったから笑。それでも、熊本ですが、県外へのチャレンジも開始します」。
ところで、九州といったら豚骨ラーメンですよね?
「そうです。福岡もそうですし、熊本ラーメンも、基本は豚骨。東京のラーメンとはぜんぜん違います。ただ、豚骨ラーメンが主流ということは間違っていませんが、たまには違うテイストのラーメンも食べたいと人間、思いますよね。私自身、いろんなラーメンを食べ歩いた経験から、豚骨ラーメン以外にも旨いラーメンをたくさん知っていましたから、尚更です」。
ローカルに、グローバルを。という発想ですね?
「そうですね。たとえば、2008年にリリースした『太一商店』は、豚骨ラーメン定番である細麺の真逆の太麺です。ローカルに目を向けていただけではできない、チャレンジです。オープン当初は『これは、ラーメンじゃなく、うどんだ』とお叱りをいただきました笑。ただ、おおむね好評で、2009年に濃厚醤油ラーメン『馬力屋』、2013年には味噌ラーメン『味噌乃家』をオープンします。現在では、長浜ラーメンを含め、7ブランドになっています」。
重石になっていたビルも売却済。7億の借金からの大逆転はすでに果たしている。

ローカルに、グローバルを。

ところで、社名に「麺」という文字は入っていますが、ラーメン店とうより麺のメーカーといったイメージが先行します。
「そうですね。じつは、当社は今後、食品メーカーという位置づけでいきます。昔から、麺は製麺所にお願いしていたんです。ただ、なかなか思い通りの麺がつくれなかった時があって、『じゃぁ、俺たちでやってみるか』となって、小さな製麺機を購入したんです。それが、食品メーカーになるきっかけです」。
なければつくる。その発想がすごいですね?
「もちろん、最初からうまくいったわけではなく、何度も試行錯誤と改良を繰り返します。その結果ですが、いまでは、同業のお店にも、麺を販売させていただくようになりました」。
ラーメン店以外にも業態を広げている。
「ラーメンの麺づくりというノウハウを活かして、同じ小麦粉を使うパンやカステラの新規事業を開始しました」。これらは、地域連携で取り組んでいるそう。
ご当地グルメの「鉄輪豚まん」のM&Aも行った。
「地域の食文化を残すことに役立てる一方で、食品メーカーへという私たちのビジョンを前に進めることができると判断しました」。
発想の幅が広い。
じつは、社員の定着率もいい。こちらは、学生時代、どんなアルバイトをやっても続かなかった自身の思いを反映させているからだそう。
「なんで辞めたくなるかわかっていますからね。経営者として、私の強みです」と笑う。
いずれにしても、ローカルに、グローバルを。この発想が面白い。この発想は、吉岩氏が根ざす地域を、まだまだにぎやかに、はなやかに、多様化するにちがいないから。
「最初で最後の親孝行」は、事業家だったお父様も絶賛するだろう経営者を育てることにもなった、そんな気がする。

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