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第956回 株式会社壱番屋 代表取締役社長 葛原 守氏
update 23/10/17
株式会社壱番屋
葛原 守氏
株式会社壱番屋 代表取締役社長 葛原 守氏
生年月日 1967年6月30日
プロフィール 調理師専門学校卒。ホテルでの修業を経て、カレーハウスCoCo壱番屋を運営する(株)壱番屋に転職する。スーパーバイザーを6年ほど務め、同社が中国に進出する際に手を挙げる。現地合弁会社の副社長に就任し、難しい中国進出を成功に導く。その後、台湾での出店を手がけた後、日本に戻る。海外事業担当役員に就任してイギリスやインドへの出店に携わり、2019年社長に就任する。
主な業態 「カレーハウスCoCo壱番屋」「あんかけスパゲッティ パスタ・デ・ココ」
企業HP https://www.ichibanya.co.jp/comp/

少年がねだったのはオーブンレンジ。

今回、ご登場いただいたのはカレー専門チェーン「カレーハウスCoCo壱番屋」を運営する株式会社壱番屋の代表取締役社長、葛原守氏。葛原氏が生まれたのは、1967年。東広島市のごく普通の家庭で育った。
「小さい頃から料理が好きで、幼稚園児の頃にはもうサンドウィッチを作っていた」と笑う。
料理はかなり本格的で、小学生になるとTVを観て小麦粉から「手打ちうどん」を作っている。中学に入学する頃には、オーブンレンジをねだったというから、筋金入り。
「オーブンレンジを買ってもらってからは、シュークリームもお手製」と言っている。
料理に興味があったからだろうか。高校1年から大手ハンバーガーチェーンでアルバイトをしている。
「ただしくは、私が、というより、友達がついてきてくれ、と。それで同行したら、君も名前を書きなさい、って言われて」。
友達はすぐに辞めてしまったが、葛原氏は辞めなかった。最初はポテトを揚げる担当だったが、1年後には、何でもできるスーパーアルバイターになっていた。
「大学生のバイトにも指導していました」と笑う。
飲食が向いている、と思ったのもこのとき。
「料理も好きだし、バイトで評価されたこともあって、料理の世界に進もうと調理師専門学校に進みます。手に職をと言っていた両親も大喜びです」。
「当時から、開業にも関心があったようで、私はすっかり忘れていたんですが、友達に言わせると、高校の時から『喫茶店の開業の仕方』などの本を読んでいたということです」。
料理人と独立開業。この2つが少年時代の、葛原氏のビジョンだった。

カウンターの向こう側に広がる羨望の世界。

「ただ、最初はフリーター生活を謳歌する予定だったんです」と葛原氏。専門学校を卒業する時の話。
「とりあえず一社は受けてみたんですが、受からず、これはダメだな、と。でも、父親の知人の紹介でホテルに就職できてしまったんです(笑)」。
希望していたフリーター生活が一転して、ホテルでの料理人生活がスタートする。 
バブル期のど真ん中ですね?
「当時はバブル経済の真っ只中だから、とにかく忙しかったですね。朝4時からスタートして、深夜まで仕事がつづくことも少なくありませんでした。朝食の準備から夜の宴会まで休む暇もありません。ようやく仕事が終わったとひと息つくと、先輩が『じゃぁ、飲みに行くぞ』って」。
「転職しようと思い始めたのは、ホテルの最上階にあったレストランで鉄板焼を担当したのがきっかけです。レストランの花形でもあるんですが、カウンターの向こう側には、私らと次元が違う人たちがいらっしゃるんです」。
「うらやましいじゃないですか? もちろん、そうなりたいと思うんですが、今のままだと向こう側に座るのは難しいんじゃないかと思ったんです」。
独立開業を目指して、まずは給与面で満足できる企業に入り資金を稼ごうと求人誌を読む。その中で高給だったのが、運送会社とココイチ。選択肢が2つに絞られる。
「運転には自信がなかった。その一方で、飲食は私のフィールドですからね。心の針がココイチに傾きます」。
確かに当時、「ココイチ」は積極的な採用を展開していたように記憶している。
「厳しい労働環境だったホテル出身の私からすれば天国でしたが、一般企業の出身者には、異次元の世界だったのかもしれませんね。辞めていく人の方が多かったです」。
そのなかで、葛原氏は異例の飛び級を続ける。
「いろんな意味で水があったんだと思います。私は商品の価格と、オーダーを厨房に伝えるときの略語を1日で全部マスターして、2日目からオーダーを取っていました。驚く方もいましたが、やろうと思えば誰でもできると思います。ココイチには、スキルに合わせた等級があって、当時は11等級がスタートラインです。通常、1か月後に10等級となり本格的にキャリアがスタートするのですが、私の場合は10、9を飛ばして翌月には8等級でした。いわゆる飛び級ですね」。
彗星の如く現れた大型新人だ。

夢を追いかけて中国へ。

「現在、全国にあるココイチの約90%がFCオーナーのお店です。私と同様、店舗で仕事を経験した人が、独立していくわけです。ある時、所属していた店舗の責任者に『この店でオーナーになったら、月にいくら儲かると思う?』と聞かれました。当時はそれがびっくりするような金額で、その時にココイチで独立してオーナーになろうと思ったのです」。
「ただし、簡単にオーナーにはなれません。順調だった私にも試練がやってきます。手先は器用で段取りもうまい。だから、昇格も早かったんですが、店舗の責任者になってブレーキがかかります」。
「天狗になっていた」と葛原氏はいう。
「閉店間際、混雑したタイミングでパートさんが急に辞めるといいにきて。ご飯も急いで炊いている中で、10分以内にお客様に提供しなければいけないのに17分もかかってしまいました。その現場をたまたま裏から入ってきていた部長に目撃されてしまうんです」。
これが原因で、降格。1回目である。
「すぐに昇格するんですが、今度はなかなか独立の道が見えません。最短2年で独立できると聞いていたので、絶対に最短で独立しようと思っていたんですけどね。それで辞めようと決意したのですが、部長に説得されて続けることにしたところ、辞めると言って周りに迷惑をかけたからと、再び降格。2回目です。結局2年では独立できませんでした」。
昇格しては、降格する。独立へ続く道が、太陽の下に現れては、消える。
「結局、3年くらい経って本部に残らないかと誘われ、6年ほどスーパーバイザーをやったあと、2002年に課長に昇進します。そして私が36歳だった2003年に、中国進出の話が社長よりオープンにされました。当時の浜島社長(現会長)の店舗巡回で岡山まで同行した際、手を挙げました」。
海外志向があったわけではないが「異国に行くのに、不安はまったくなかった」と言っている。
ちなみに、その時の社長命令は「3年で黒字にしろ」だった。
「3年で黒字にすれば、帰りの飛行機はビジネスクラスでもいいですか?」
「もちろんだ」
社長と約束を交わす。

肩書は「副社長」

「ハウス食品さんが一足早く中国にカレーレストランを出店していました。偶然、新幹線で、浜島社長と当時のハウス食品さんの社長がばったり会って、一緒に事業を進めていくという話になったそうです。その話に乗っかって私は中国に渡ります。総経理という日本でいう社長はハウス食品さんから来られ、私は副社長」。
中国に進出した飲食企業は少なくない。だが、成功例は少ない。
「カレーライスは当時、一部の居酒屋のメニューにはあっても、一般大衆向けの専門店はありませんでした。現地の日本人には喜んでいただけましたが、現地の方からは『あれはなんだ?』と(笑)」。
カレーライスの認知度自体、低かったようである。ただし、組織はうまく立ち上がった。
「中国人に対して、人前で叱るのはNGと言われていました。でも、私はそうは思いません。国籍は違っても人間は一緒です。みんなの前で叱られることを嫌がるのは、日本人だって同じです。大事なのは普段から信頼関係を築けているかどうかです」。
「役割もレジ係であればレジのみ、掃除係であれば掃除のみのように、一つだけを与えるようにとアドバイスされていました。これもそんなことはありません。トイレ掃除も私が率先してやりました。そうしていると『副社長、私がやります』という人が出てきました。でも、これは大事な仕事だから私がやるというと、『じゃあ、ローテーションで』という話になって。片言の中国語でしたが、とにかく会話しました」。
ランチタイムは、従業員との大事なコミュニケーションタイム。従業員と同じテーブルでカレー以外の弁当も用意して、一緒に語り、そして食べた。誕生日もすべて記憶して、サプライズでちょっとしたプレゼントもしたそうだ。
とはいえ、赤字は続く。
「1号店が赤字のまま、2号店を出店することになります。女性のお客様に興味を持っていただけるように、内装を思い切ってデートでも使えるようなカフェ風にしました。これでだめなら、日本には帰れないという強い覚悟でした」。
食に関して男性は保守的な傾向にあるというのが、葛原氏の持論。だから新しいものに敏感な女性をターゲットにして、内装だけではなく、メニューまで一新。
「内装は日本人のデザイナーに頼みました。感度の高い女性が惹かれるカフェ風のカレー専門店です。メニューも、ふわとろの卵をライスに載せて華やかな見た目にしたり、チキンクリームソースを掛けたりと工夫を凝らしました。これが大ヒットします。オープンから月1万人が来店。上海のテレビ局から取材があって、放映されるとさらに人の山です(笑)」。
中国に進出してから1年が経つ頃、台湾にも進出。
「中国で作ったパッケージで出店した結果、台湾でもいいスタートが切れました」。
3年で黒字にするという任務を遂行した。
「でね。ビジネスクラスの話を社長に話したら、『いいぞ、貯まったマイルで帰って来い』って(笑)」。

ワクワクが止まらないカレー専門チェーン。

「飲食の仕事は面白いし、ワクワクできる仕事です。私は今もワクワクしています」。
中国で5号店目を出店する頃、葛原氏は日本へ戻る。「中国はいったん軌道に乗りましたので、次はどこか、と。次々と海外に出店するのが、私の目標でした」。
「花火を打ち上げる」と葛原氏は表現する。ロンドンでその花火が打ち上がる。
「カレーの生まれ故郷であるインドに出店するのは、現会長の浜島の思いでもあったので、これは絶対に達成しないといけないなと。2015年にイタリアでミラノ万博が開催された時、ロンドンまで足を延ばして異国の食文化を受け入れる寛容さがあることを知りました。次はロンドンだと思った私は、インドのカレーがイギリスに渡り、そこから日本に伝わったことをふまえて『逆のルートをたどりませんか』とプレゼンしました。日本からロンドンを経て、インドというわけです。ロマンがあるでしょ」。
Goサインが出ると、すぐに準備を始める。2018年12月、ロンドンにココイチが誕生する。想像通り、イギリス人は日本のカレー専門店を抵抗なく受け入れてくれた。
「約束通りイギリスを経て、2020年8月、インドにココイチを出店します。カレーの本場で、ついに一歩を踏み出すことができました。コロナも落ち着いてきた今からが勝負です」。
葛原氏の立場にも大きな変化があった。
「副社長を経て、2019年に社長に就任しました」。
国内外での出店、新業態へのチャレンジ、9割にのぼるFC店、自社の従業員、FCのオーナー、その従業員の未来を一緒につくり上げている。その責務は重大だ。ただ、話を聞いていると、そのプレッシャーさえもワクワク感にかえているように思えた。
「いつか外国から来られた人に、『日本にもココイチがあるんだな』と言われたら、成功だと思います」。
発想のスケールが違う。
ちなみに、趣味はグルメサイトをみて食べ歩くこと。中国にも、台湾にも、イギリスにも、インドにも行ってみたい店があるに違いない。憧れたカウンターの向こう側には、「世界」が広がっていたことになる。

思い出のアルバム
 

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