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第961回 店舗ナンバーワンホールディングス株式会社 代表取締役 三浦正臣氏
update 23/11/21
店舗ナンバーワンホールディングス株式会社
三浦正臣氏
店舗ナンバーワンホールディングス株式会社 代表取締役 三浦正臣氏
生年月日 1980年12月5日
プロフィール 定時制高校を卒業。店鋪流通ネット株式会社に就職し、日に800件という驚異的なアプローチ数と、営業トークの改善を重ね、記録的な営業数字を叩き出す。24歳、同社が株式を上場。当時、最年少で上場企業の役員となる。独立は、32歳の時。店鋪流通ネット時代を含め、プロデュースしたショップ数は2500店舗を数える。
主な業態 「恵比寿横丁」「海苔弁いちのや靖国通り本店」「牡蠣とシャンパン 牡蠣ベロ」「ムーミンバレーパーク メッツァレストラン」他
企業HP https://tenpo-no1hd.com/
「ホームランバッターだけを詰め込んだ」と笑うのは、店舗ナンバーワンホールディングス株式会社の代表取締役、三浦正臣氏。海苔と米はもちろんのこと、すべてにナンバーワン食材を使った至極の「海苔弁当」の話。これで、1080円とは、コスパも高い。
ヒットを生み出す方程式は「味×デザイン×戦略」と三浦氏。店舗流通ネット時代から数えて2500店舗をプロデュースしているだけに、言葉には重みがある。特筆すべきは、一つとしておなじブランドはないということだ。
「誰も見た事がない店舗をつくるのが大好き」と三浦氏。専門ブランドが集まる「横丁スタイル」も三浦氏プロデュースの一つ。さて、今回は、飲食店経営者ならだれもが知っている、飲食プロデューサー、三浦正臣氏にご登場いただこう。意外な人生に驚かれるかもしれない。

親子2人の安アパートと、6+9=と。

「私の曽祖父は黒澤明さんと同期で、映画『ゴジラ』の初代監督です。祖母は女優で、父は自由人。私が生まれたのは、父が18歳、母が14歳。母の両親が猛反対するなかで私は生まれ、育ちます。ただ、私が2歳の時に母がでていってしまったので、育ての親は父だけです」。
親子、2人の安アパート。
「私が、中学3年の時。帰宅すると父がアパートで亡くなっていました」。
生前の父と同じく、引越し業者で仕事をしながら、定時制の高校に通った。
「大変でしたが、働かないと食べていけないし、アパートも追いだされる。だから、仕事で手を抜くことはできませんでした」。
仕事では、遅刻をしたことがない。
学生時代はどうだったんだろう?
「小・中とまったく勉強どころかノートを取ったこともありません。もちろん、高校でも。でも、高校入試には合格していますよ」と三浦氏。種明かしは、こう。
「だってね。数学の問題1)が、6+9=ですからね(笑)」
高校では三浦軍団ができ、卒業式では生徒代表を務めている。その時、披露されたスピーチも気になるところだが、先を進めよう。

「おめでとう。うかったよ」

「高校を卒業してから、いい金になると誘われて穴掘りをはじめます。危険な仕事でしたが、日当1万5000円、悪くありません。でも、アホだから、命をかけても月50万が限界でした」。
当時、三浦氏はギャングのボスに憧れていたそうだ。
「オールバックで、スーツをバッチリきめて。ワインを飲んで、みたいな笑。でも、オレはっていうと、爪の中まで真っ黒。指をみる度、なんだかなって。春になると仕事がなくなり、プータローになっちゃうような仕事でしたし」。
指をみては、ため息をついていたある日のこと。後輩が、お菓子とジュースと求人誌をもって部屋にやってくる。「違う仕事をしましょうよ」っていう後輩の言葉を聞きながら、何気なく、ページをめくっていた三浦氏の手が止まる。
「『18歳以上。学歴不問。やったら、やった分だけかせげる」って、コピーが載っていたんです」。
「やったら、やった分」、文字が頭のなかを駆け回る。
「無知だから、ベンチャー? 上場?って、なに言ってんのか、ぜんぜんわかんないんです。でも、ひょっとしたら50万円のカベを超えられるんじゃないかって。ソッコーで電話をかけました」。
その後の話を少し。
「『来週木曜日16時に面接をします』ってことになって。向かったのは池袋北口。都内に行くのも初めてだから、当時の彼女について来てもらって。着いたところは8階建のでっかいビルです、『デケェ』ってつぶやくと、彼女に背中をドンと押されます」。
「行ってきな」。
成人式で買ったスーツを着て、ロン毛の青年がエレベータに乗る。ふりむけばわかるが、眉毛は1本もない。
「部屋に通され、履歴書をだしたとたん爆笑されました」。
特技は「アーク溶接」と「玉掛け」。
「『そうなんだ、玉掛けができるんだ』って」。
「ブルーカラーとかホワイトカラーとか、相手が何言ってんのかわかんなかったんですけど、とにかく、赤裸々に話をさせてもらって。帰りには新宿に寄って、人生初のスターバックスです。好きでもない珈琲を飲みながら、洒落込んで、ね。これで、オレも山手線のなかの住人になるのかなって、ドキドキしながらね」。
「合否の通知がくる日のことです。当時はPHSで、穴掘りしているとなかまで電波がとどかないんです。で、PHSを彼女に託して仕事にでます。その日に来るのがわかっていましたから、仕事が終わって一目散に帰ります。でも、きったねぇから、一旦、風呂に入んないと部屋に上がらせてもらえません」。
「服ぬいで、頭と体を大急ぎで洗って。パンツ一丁で、ガラガラと障子を開けたら、彼女がケーキをもって待っていてくれて。『おめでとう、うかったよ』って」。
2人して、ケーキを頬張る。甘い未来が口のなかに広がる。

上場企業、最年少、役員。

「アホですからね。『髪の毛を切ってこい』って言われていたのに、ちょっとだけ切って。自己紹介でアホをさらけだすんです。『え、あ〜』って言いながら、一瞥をくれてやって、『だれにも負けないんで、よろしく〜』って」。
合格をだした面接官が、オフィスの端っこで縮こまっている。
「なんでヤンキーを採用するんだよ」。
うん? どうなっている?
「仕事はテレアポです。給料は15万円。名刺交換もしたことがないし、FAXも使ったことがない。いまだったら、絶対、採用されてませんよね。ある日、朝礼で社長が『三浦くん、前でてください』っていうんです。で、みんなのほうを向かされて。『みなさん、こいつの格好と髪型をどう思いますか』っていうんです。そうしたら『よくないと思います』って。デキレースですよね」。
「カーッと来ちゃって、ムスーとしていると『よくねぇんだよ。その格好も、頭も。来月トップ取れなきゃ、頭、丸めて、リクルートスーツ着て来い」って社長が怒鳴ります。そのあと『国歌斉唱だ』っていうんです。口を閉じていると『どうしてお前は、歌わねぇんだ』って凄むから、ちからいっぱい言い返します。『国歌を知りません』って。本当に知らなかったんです(笑)」。
翌日。
「もう、腹も立つし、凹むし。くそめんどくせぇなって」。
つよがってみせるが、オレにはやっぱり無理かな。ギャングのボスも、都内でスーツも、と心のなかで、弱音を吐く。
「でも、仕事は休まないっていう、昔からの習性で、翌日も会社にはちゃんと行くんです。出勤すると社長が呼んでいるっていうんで、『上等だ』って思って、社長室に乗り込みます。そうしたら『いやー』って。えびす顔で(笑)」。
「『昨日は、くやしかっただろ』っていうから『はい、ぶん殴って辞めてやろうと思いました』って、正直に言いました。そしたら、やっぱり怖い顔になって、『勘違いすんなよって。町田で、いくら喧嘩がつよくって、有名でも、会社では通用しないんだよ。いきがりたきゃ、結果で周りを黙らせてみろ』って」。
結果として、尻を叩かれた格好だ。期待の表れでもある。社長は、当然、恩人の1人。
しかし、当時は、そうは思わない。
「上等じゃねぇか」と腹が座る。
テレアポの件数は、日に800件を超えた。1人、真っ暗なオフィスに残った。
「最初にアポイントをもらったのはゼンショーさんです。ロイヤルホストさんにもアポが取れたんですが、こちらでは2時間ちかく説教されます笑。でも、それがトークを磨くきっかけになり、いまも感謝しています」。
ちなみに、社長の指令は翌月から果たしている。翌月から23ヵ月連続営業成績トップ。三浦氏の成績がダントツすぎて、成績争いは、実質、2位争いだった。壇上に上がるたび、社長が「またお前か」と言って笑った。
この当時、三浦氏は、1人で月1億円の利益を叩き出している。
「役職も、給与も、天井知らずです。24歳の時、店舗流通ネット株式会社が名古屋証券取引所セントレックス株式を上場し、私は、当時最年少で、上場企業の役員になりました」。

バンコクとパリと、飲食の未来と。

学歴もない。勉強もしたこともない。だから、給料の限界が50万円だと思い込んでいた青年が働く環境を変える事で、己の才覚と努力だけで、はるか上空に駆け上がる。
荒波も潜り抜けている。実は、店舗流通ネットは、大株主が数度、代わっている。創業社長からファンドに。ファンドからハークスレイに。
「逆風がふき、幹部が辞めていくなかでも私は残ります。私が採用した新人13人がいましたから。こいつらを食わしていかなくっちゃなりません。だから、会社を潰すわけにもいかない」。
三浦氏は淡々と話すが、たたかいの日々だったにちがいない。たぶん、この話だけで、物語りが一つ描ける。当時、三浦氏は店舗流通ネットという上場企業の売上をほぼ1人で叩き出している。
「私が面倒をみた新人は、だれ一人辞めずについてきてくれました。離職率ゼロです。実は、退職を決めたのは、奴らの一言です」。
「『オレたちはもう大丈夫だから好きなことをやってください』って、上司に、退職を勧告する、なんてやさしい奴らでしょう(笑)」。
彼らはいま、有名な企業の社長になっている。これこそが自慢というように、三浦氏は、かつての部下の名を挙げた。
三浦氏が辞めたという情報が、流れる。接触を試みる人が後をたたない。
「当時、海外に日本食をという流れがあって、じゃぁ、そういうのを三浦にやらそうってことで(笑)」。
大手企業のオーナーと海外視察にもいった。
「度肝を抜かれた」と言っている。
「食べたことのない食材や、調味料があって。バンコクではショップの内装は格好良くて、パリの飲食店のスタッフは、シェフもそうだし、スタッフもみんな格好いいんです。日本なんて、飲食ではたらいているって言って威張れないでしょ。でも、彼らは、違う」。
「今の店舗プロデュースを事業にしようと思ったのは、パリの帰りの飛行機のなかです。パリの人間が日本で店をオープンさせたいと思ったらどうするかって」。
独立してからも100店鋪以上を立ち上げ、軌道に乗せている。「海苔弁当」も、その一つ。伊勢丹、高島屋、西武、そごうといった百貨店にも並んでいる。
「飲食店で、1万円売るって結構、難しいんですよね。でも、海苔弁当は次々売れていきますから、1万円もあっと言う間です」。
父親と暮らした日々。鎌倉を根城にしていた父親は少年にとってヒーローだった。町田に移り住んでからも、2人暮らしが続く。
「父が引っ越しの仕事を始めてから、バイトが休んだりすると、中学生の私が駆り出されて。たいへんでしたが、父と過ごした時間は、いまも私の大事な宝物ですね」。
「作るならさ、どこにでもあるようなもんじゃなくて、世界で一つだけのものを作れよ」。
父親がいまもご健在なら、そう言ってハッパをかけておられるかもしれない。今を一生懸命生きること。これは、父親から習ったことの一つ。

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