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第970回 WOOD HOUSE株式会社 代表取締役 氏田善宣氏
update 24/01/23
WOOD HOUSE株式会社
氏田善宣氏
WOOD HOUSE株式会社 代表取締役 氏田善宣氏
生年月日 1983年5月28日
プロフィール 1983年、大分県竹田市に生まれる。高校卒業後、フリーター生活を開始。21歳、本格的に飲食の世界へ。25歳で1円で株式会社を設立し、28歳、地元竹田市で1号店「陽はまたのぼる」をオープンする。
主な業態 「陽はまたのぼる」「竹田タン処 かとう」「竹田はつひので」「せんべろお町」他
企業HP https://陽はまたのぼる.com/

野球、バスケ、陸上。スポーツと高校までの氏田氏。

大分県竹田(たけた)市は、西は熊本県、南は宮崎県と隣接している。大分空港よりは熊本空港の方が近いそうだ。地図で確かめてみたが、確かにその位置関係となっている。
さて、今回ご登場いただいた氏田氏が竹田市に生まれたのは1983年のこと。父親は材木業を営んでいた。木材が輸入され始めると国内の材木業は斜陽を余儀なくされ、氏田氏が小さな頃は氏田家も経済的に厳しく、父と母が何度か経済的な問題で喧嘩されていたそうだ。
ところで、竹田市は自然は豊かだが人口は少ない。小学校は1クラスしかなかったという。ウイキペディアには2000年10月1日時点で、市(合併前の旧竹田市)としての人口は全国でも8番目に少なかったそうだ。
「中学はさすがに3クラスあった」と氏田氏は笑う。小学生の頃は野球。4番でエース。中学になってからはバスケットボールをはじめている。高校は商業科に進み、また2クラスに。高校には推薦で進学。バイク通学がOKだったことが決め手になったそう。6キロ離れた学校までスクーターで通った。高校ではバスケ部がなかったこともあって、陸上をはじめている。100メートルと幅とび。幅とびでは県で1位になったこともあるそうだ。
「怪我がきっかけで思ったような結果が出なくなり、2年生の時に辞めたいと先生に相談します。指導いただいていた熱血教師がなかなか辞めさせてくれなかったんです。『テストで全教科80点以上を取れば許可してやる』って(笑)。いつもビリから5番目くらいでしたから誰が聞いても無茶な注文です。でも、やればできるもんですね。無事クリアし、部活を卒業させてもらいました」。
全教科80点以上となれば、学年でも上位に食い込んだんじゃないだろうか。

フリーターからマネージャーへ。飲食で独立を志す。

「小学生くらいの頃から社長になりたいと思っていました。もちろん単純な話で、金持ちになりたかったからです。高校卒業の時にも、やりたいことといえばやはり経営者。だからだと思うんですが、周りから大学や専門学校の話を聞いても全然ピンと来なかったですね」。
卒業後、どうされたんですか?
「大阪と福岡でアルバイトをしたり、お金がなくなれば実家に戻って仕事をさせてもらったり。立派なフリーターです(笑)。バーテンダーって響きに惹かれて、福岡のダイニングバーでアルバイトを始めたのが21歳の時です」。
それが、飲食で独立するきっかけですか?
「そうですね。ただ、ダイニングバーのトップとまったくソリがあわず、辞めようと思っていたんです。その時、何度かヘルプで行かしてもらっていたグループの焼肉店の店長に『だったらウチで』と誘っていただいて」。
恩人?
「まぁ、そうですが。その店はグループの中でも旗艦店だったので、社長も毎晩来られていたんですね。私も長い時間仕事をしていたので話をするようになって。ちょうど、もつ鍋の第2ブームがじわじわと来ている頃で、その社長からもつ鍋の店長をしないかとオファーをいただいたんです」。
まだ、21歳。大抜擢ですね。
「どうでしょうか。ただ、もうその時には飲食でやっていこうと腹を決めていたんです。だって、500円のビールの原価が140円って聞いちゃいましたから(笑)。それで、当時の社長に注文を出したんです」。
注文?
「そうです。一つはスタッフは全員私が連れてくる。もう一つは完全歩合です。売上の20%。これが私の歩合になりました。でも、3〜4人連れてきたんでマイナススタートです(笑)」。
月商200万円だったというから、確かにやりくりは厳しい。
「さすがにこのままではと思って、スーツを買います」。
スーツ?
「そうです。スーツを着て、テレビ局、詣です。『もつ鍋専門店』で一点突破を図ります。取り上げてくれたのが、複数の料理人が評価するガチな番組だったんです。ありがたいことに料理人たちから絶賛されるんです。おいおいって感じですよね。200万円が400万円になり、500万円になり1000万円をオーバーしていきます。そうなって初めて、それなりの給料を取ることができるようになりました」。
もつ鍋ブーム到来。
「そう到来するんですが、どこもかしこももつ鍋になっちゃって、ブームもそういつまでも続かない。で、また、給料が取れなくなってしまうんです。その時、ちょうど23歳。給料制でやらないかと社長に提案いただいて2店舗をみるマネージャーとなって仕事をさせてもらいます」。
月給30万円。
上にヘコヘコするのがイヤだから。氏田氏は、独立の理由をそう語っていた。この社長の下でならと思ったのかもしれないが、さて、独立は封印されてしまうんだろうか?

WOOD HOUSE、設立。そして、3年後、「陽はまたのぼる』オープン。

「もともと起業というより、会社をつくりたかったんです。目標としては25歳です。でも、お金がない(笑)。ただ、お店をオープンするお金はなかったんですが、会社はお金がなくてもつくることができたんです」。
資本金は?
「そう。資本金はいりますよね。でも、1円で株式会社がつくれたんです」。
1円?
「そうです。それが『WOOD HOUSE」の始まり。木の温もり、木の香り、木の触り心地、そういうものを社名に込めました。だから、普通の人とは順序が逆ですが、25歳で会社をつくって、3年後の28歳の時に竹田市に創業店となる『陽はまたのぼる』をオープンします」。
創業店オープンまでの3年間、修行を続けた氏田氏は意を決して実家に戻る。資金を貯めるのが、目的だったそう。
「実家なら家賃もいりませんから。竹田市から福岡に遠征して物件を探す。これが基本計画だったんです」。
でも、創業店は竹田市ですね?
「そうなんです。あれは確か土曜日です。実家に戻ったので、同級生たちと酒を酌み交わします。17時からスタートして、19時過ぎに『さぁ、2次会行くぞ』って店を出たら、通りに人がいないんです。19時って夜7時ですよ。なのに私ら以外、誰もいない(笑)」。
ちょっとびっくりですね。
「それがきっかけになって、いろいろ調べると、竹田市は20年後には限界集落になっているとか、市が破綻する、また後期高齢者の比率が日本で一番っていうネガティブな情報ばかりだったんです。で、これはいかんということで、仲間50人くらいで『一期一会』って会をつくります。飲み会なんですが、1次会から3次会までやって、タクシーや運転の代行を使ってとにかく、少しでも町にお金を落とそうって」。
草の根的な発想ですね?
「そうですね。出会いを大切にして。だから『一期一会』なんですが、輪を広げていこうと。そんなことをしていますとね、福岡でいい物件が出たって聞いて見に行っても、全然頭に入ってこなくなるんです(笑)」。
竹田市。なんとかしないとふるさとがなくなってしまう。町を捨てるか、それとも町に残るか。悩んだ末の氏田氏の答えは「町に残る」だった。
「町をもう一度賑やかにする。そう思っても私にできることは、店をつくることくらいです。でも、やらないより、やったほうがいい。そう思って、もつ鍋店をオープンします。それが28歳の時。1円で会社を興して3年目です。店名は『陽はまたのぼる』。竹田市にもう一度陽をのぼらせる、という私の決意を店名に刻みました」。

陽はまたのぼる。

「陽はまたのぼるでは野菜も、スープに大事な水もすべて地産地消です。特に水は有名です。そういう地域の宝をいかすことをコンセプトにしています。水は、わざわざ汲みに行っているんですよ」。
もちろん今に至るまで様々なことがあった。創業店はデリバリー、テイクアウト、通販からスタートしている。やると言っても氏田氏1人。軍資金も潤沢にはない。なんとか貯めた200万円で出店したものの、イートインがオープンしたのは1ヵ月後。半年後に900万円かけ改装しているが、地元の大工さんなどに頼み込み、割賦にしてもらっている。
「ありがたかったですね。銀行ももちろん貸してくれないから、なんとか支払いを待ってもらって、毎月の売り上げから、少しずつ支払せていただきました」。
  地元のためという青年を応援しない人はいなかったのではないだろうか。
氏田氏という1人の人間の地元愛から始まった事業は、少しずつ広がり始めている。
居酒屋甲子園で優勝もされていますね?
「ええ、そうなんです。おかげさまで。そういう意味では、大分というか竹田市を少しは有名にできた気もしますね。確かに大変なこともありましたが、今ではウエルネスというか、健康にも気を遣うようになってサウナ事業もスタートしています」。
「今からも、大分を出るつもりない」と氏田氏はいう。そこがいい。人気店は資金があればつくれるかもしれない。やる気があればV字回復もできなくはない。だが、町や市というスケールのものを甦らせるには、時間もかかり、強い決意も、愛もいるはずだ。
「陽はまたのぼる」
さて、氏田氏のなかで、お天道様はどれくらいの角度までのぼってきているんだろうか。ちなみに、創業時のことがホームページに載っていた。「2012年5月、人口約2万人の大分県竹田市にて13席、家庭用冷蔵庫1台、代表氏田1人、ただただ『この町を飲食を通じて元気にしたい』その想いだけで、小さな小さなお店が開店しました」。
そう、たった1人から、全ては始まっている。

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