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第981回 株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏
update 24/03/12
株式会社プレコフーズ
髙波幸夫氏
株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏
生年月日 1958年4月4日
プロフィール 法政大学を3ヵ月で退学し、アメリカに渡る。カリフォルニアのカレッジで2年、ニューヨークで2年過ごし、帰国。父が経営する「鳥利商店」に入社する。36歳、1994年に社長交代。社名を現在のプレコフーズに変更。2024年現在、5つのグループ企業をもち、飲食では「銀座 とりや幸」を始め、肉の惣菜店の「肉山肉右衛門」、肉屋台「肉好き大黒天」など6店舗を展開している。
主な業態 「銀座 とりや幸」「肉山肉右衛門」「肉好き大黒天」他
企業HP https://www.precofoods.co.jp/

報酬は、30円。

「創業は私の両親です。私が生まれた時には、すでに創業していました。私の父は新潟生まれ。15歳で上京して、米軍基地でアルバイトしたあと20代の時に新宿にある鶏肉専門店に丁稚奉公に入り、鶏を解体する技術を修得します。母ともそちらで出会い、そして、2人して独立したそうです」。
父が24歳、母が21歳の時。
「母の実家は豪農で、ブドウや桃、プラム、スイカなどを育てる広大な畑をもっていました。私も、夏休みや冬休みになると、母の実家に行き、養豚場や養鶏場を走り回っていました。じつは、父が就職した鶏肉店の社長夫人の妹が母でした。独立した2人が大井町で『鳥利商店』を創業したのが、昭和30年。その3年後に長男の私が生まれます」。
髙波さんが生まれたのは1958年。当時の大井町は、どんな町だったんだろうか?
「ニコンが拠点を構え、その従業員が通勤する道が”光学通り”と呼ばれるほど、サラリーマンの町でした。創業当時は、私らが住む住居と合わせても8坪ほどの店だったそうです。両親ははたらき者で、朝は遅くても7時には仕事をはじめていました。夜の9時にご飯を食べて、またそこから11時くらいまで仕事をつづけていました」。
髙波さんを連れてどこかに行く時間もなかった。代わりに手伝いは子供の頃からさせられたそう。
「『30円やるからアルバイトしろ』と言われ、店頭で焼き鳥を焼いたり、少し大きくなると解体もさせられました」。
言うなら、これが親子のコミュニケーション。
「中学受験をして、暁星に進みます」。暁星といえば、むろん、名門。エリートの子どもたちが通う学校だ。もっとも、髙波さんの第一志望は麻布中学。こちらは不合格。
「麻布に行けなかったんで、私じゃなく、父がショックを受けます。私を麻布に入れて、東大に入れることが父の目標だったみたいです。だからか、大学受験の相談をした時「もうお前には諦めている」と言われました(笑)」。
もちろん、髙波さんにはどうすることもできない。暁星で青春を謳歌する。
念のため確認してみたが、ご本人は、東大をめざしたことはないそうだ。

渡米。

「一浪して、法政大学には入るんですが、3ヵ月で辞めてアメリカに行く準備を開始します。7月から営業の仕事を始め、8ヵ月はたらき160万円貯めて、海を渡りました」。
向かった先は、カリフォルニア州ロサンゼルス。
「アメリカに行く目的ですか? それはアメリカのビジネスをみたかったから。私が学生時代だった1970年代は、マクドナルドの日本1号店のオープンや、「アメリカンドリーム」という言葉がもてはやされたり、ビジネスと言えばアメリカでした。私も商人の子。本場アメリカのビジネスを自分の目で見てみたい、と思いました。父の跡を継ぐつもりは全くなかったんですが、いずれは自分で商売をしようと決めていたんです」。
出発3日前。父にアメリカに行くと告げた。「お前のことは諦めている」と言われたあの日から、親子の仲が悪くなり、どうせ反対され喧嘩するならその期間は短い方が良いと考えた。お父様は一言、「そんな行き方をするなら日本に帰ってくる所はないと思え」とおっしゃったそうだ。
誕生日の3日後にアメリカに向かったと言っているから、帰るところがなくなったのは、誕生日だったはずである。
「ロサンゼルスに友人のお母様がレストランを経営しており、そこで働かせてもらっていました。しかしそれでは、そのレストランのビジネスは分かっても、アメリカのビジネスは分からなかった。その時、もう一度学校に行く必要性を感じました。とはいえ、働きながら卒業できるほど甘くはありません。そこで、「日本に帰ってくるところはない」とまで言われた父に、その場しのぎで、『帰国したら家業を継ぐから、支援してほしい』と手紙を書きました。父はお金を工面してくれ学校に入学しました」。
「読み書きはできましたが、スピーキングやヒアリングがてんでできない。日本の英語学習のウイークポイントですね(笑)。向こうでは、ロングビーチにあるブルックスカレッジっていう2年制の大学に入るんですが、言葉がわからないから話すこともできません。それでも毎日睡眠時間は3時間で猛勉強し、1年後には、夢も英語でみるようになっていました」。
すっかり、アメリカに慣れた証。学校を好成績で卒業し、ニューヨークに2年。「当時のニューヨークは、ファッション、ビジネス、ミュージックすべてが街中にあふれていました」。
ウエイターや、リムジンのドライバーで生計を立てていたらしい。
「あの頃は、永住権を取って、アメリカ人になるつもりでした。物価は、当時からむちゃくちゃ高かったですね。西では、アパートにプールっていうのもふつうでしたが、東だと、それが許されるのは超金持ちだけです。当時私が暮らしていた街は、見るからに怖そうな人も多く、物騒な目にあったこともあります」。
日本の青年がアメリカで、アメリカンドリームにチャレンジする。その絵を想像すると、エールを送りたくなる。

父の策略。

「アメリカ人になろう」とまで考え、ビジネスチャンスを探す日々、突然父から1通の手紙が届く。それは、『会社の経営がダメになった。日本に戻ってきてほしい』とのSOSの手紙に、髙波さんが学費の支援をお願いした、あの手紙のコピーが誓約書のように同封されていた。
「人生をアメリカで謳歌しようと夢見ていた私に突然突き付けられた現実でした。しかし、決して裕福ではなかった両親が毎月欠かさず1,000ドル仕送りをしてくれていた気持ちを思うと裏切れず、泣く泣く帰国しました」。
帰国したのが1983年。それから11年間父の下で働く。
なにせ家族経営の鶏肉屋。鶏の解体から、営業、配送、経理まで全てを担当する中で、父の策略に気づく。会社の現状は父の手紙に書いてあったような、「ダメ」にはなっていなかった。実際の売上はずっと横ばいだった。
「当時の年商は、8000万円程度です。29歳で結婚して、36歳で、父に会社をやると言われます」。
ある日、何の前触れもなく、そう言われたという。突然、言われたが髙波さんも動揺しないところが、親子である。
髙波さんは、「わかった。じゃぁ、社名を変更してもよいか」と父にそう尋ねた。
「私がアメリカから帰ってきた頃は、小売で1日7万円くらいあったんですが、だんだん落ちて1日1万8000円。小売からは撤退して、卸しに注力します」。
とはいえ、営業マンはいない。
「そう、だから最初は私1人です。私には渡米前に160万貯めた営業経験がありました。商品名と価格、それだけを書いた紙1枚をにぎって飛び込みをしました。最初の1件は、赤坂の居酒屋さんです。初めての営業は飲食店のドアの前で、心の中でカウントダウンをして入るほど、自分を奮い立たせながら営業活動をしていました。結果的には3件に1件の割合で契約もいただけましたから、効率は悪くなかったです。とは言っても、1人では限界があります。だから、営業担当を育成しようと計画しました」。
育成と同時に髙波さんは、事業拡大を進める。「Excelに数字を落とし込んで、将来像を明らかにして、金融機関にプレゼンテーションしました」。
融資を引きだし、自らの事業に投資する。
売上も10億円が50億円になり、100億円になる。
「コロナウイルス禍が始まる前には、200億円になる予定でした。でも、そこからが大変でした。2月後半からコロナウイルスが始まり、結果2020年3月期は、188億円で着地します。4月からの緊急事態宣言で売上は3分の1になりました。単月で2億4000万円の赤字です。5月は1億6000万円の赤字。飲食店には、手厚い補助金もありましたが、卸の私たちにはそのレベルの補助金はありません。何かあってからでは遅いと6月に31億円借入をしました」。
飲食業界への影響は大きかった。「当時の顧客の約20%の5000軒はつぶれてしまいました」と髙波さんは、つぶやく。現在は、コロナウイルスが5類に分類され、飲食店もまたにぎやかさを取り戻している。プレコフーズにも、昔通りの活気が戻っている。
それにしても、父の跡をついだと言っても、ほぼイチから200億円企業を育てている。しかも、食品の卸という確立したマーケットで、結果をだしている。
発想力か、創造力か。
何が、この結果を生み出したのだろう。
ニューヨークでの生活だろうか。ロスでの暮らしだろうか。アメリカに渡る決意をしたことだろうか。それとも、30円で父の仕事を手伝ったからだろうか。案外、その時から、父の息子に対する英才教育は始まっていたのかもしれない。
兎にも角にも、2代目社長の挑戦はつづく。ちなみに、コロナ禍を乗り越え、今季(2024年3月期)の売上は260億円になるという。

思い出のアルバム
思い出のアルバム 思い出のアルバム 思い出のアルバム
1歳頃。創業店舗の前で両親と 幼少期。自宅兼店舗の前で 1980年頃のアメリカ・ニューヨーク
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渡米時 帰国から11年後社長に就任 戸越銀座時代。社員と
 

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