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第984回 有限会社ニシキダイナー 代表取締役(らーめん錦グループ代表) 遠藤隆史氏
update 24/03/26
有限会社ニシキダイナー
遠藤隆史氏
有限会社ニシキダイナー 代表取締役 遠藤隆史氏
生年月日 1969年12月30日
プロフィール 秋田県大館市出身。様々な仕事を経験し、兄といっしょにラーメン店をオープン。数々の賞も受賞して、日本を代表するラーメン店になり、海外にも進出。台湾、サンディエゴで出店を行い、サンディエゴでも、数々の賞を受賞し、ミシュランにも掲載されている。
主な業態 「らーめん錦」「麺屋うるとら」「Menya ultra」他
企業HP https://nishiki-diner.com/

コックさんの絵を描く。

アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴに旨いラーメン店がある。「Menya Ultra」。この「Menya Ultra」を経営するのが、今回、ご登場いただいたニシキダイナーの遠藤社長である。
もともとアメリカと縁があったわけではない。出身は秋田県大館市。秋田県のなかでも、北部にあり、青森もすぐそこ。
「ご想像通り、田舎です(笑)。裏に畑があってカボチャ、じゃがいもを育てていました。夏野菜は、ぜんぶ収穫できて、お米も含めて、自給自足。消費できない分はJAにお願いしていました。小・中とか水泳や野球などスポーツもやっていましたが、食べるのがとにかく好きで、母親にくっついて、ごはんをつくるのをみていました」。
小学5年生の時には天ぷらの研究をしていたというから、筋金入り。「食材は、そこらへんにありますからね。ちなみにラーメンの文化は、あまりなかったです。そうそう、子どもの頃に将来なりたい職業として、コックさんの絵を描いていました」。
父母と兄の4人家族。
「私のなかでは、兄の存在が大きいです。兄は私より5つ年上です。やんちゃなタイプで、私が高校生の時、自宅の隣にあった喫茶店を間借りしてラーメン屋を始めます。東京で有名ラーメン店で修業をしてきたそうです」。
「これも私のターニングポイントの一つ。ただ、兄は、ラーメン屋を辞めてトラックの運転手に転身します。私自身は高校を卒業し、道路公団に就職するんですが、1年で退職してしまいます」。

ほっかほっか亭の経営、開始。

「仕事を辞めたのは、重度の皮膚症だったからです。中・高の頃から病院に通っていました。頭皮がケロイドになったりします。就職したのは、有料道路を管理する会社だったんですが、ハードな仕事だったからでしょうか。症状がひどくなって、1年で退職します」。
頭皮がケロイドになり、かさぶたのようになって剥がれ落ちる。大学病院をいくつも回ったそう。
「その後、地元のペンキ屋に就職が決まりましたが、初日で逃げ出しました(笑)。その後、飲食関連の会社で経理の仕事をするんですが、給料9万円。治療代も払えなかったので、そちらもやはり退職します」。
兄が、ふたたび、遠藤社長を誘う。
「日産の下請けの浜松工場です。季節労働者というんですが、私たちからすれば出稼ぎというイメージです。給料は破格の40万円。前職が9万円でしたから、その額に目を丸くして、私もついて行きます。たいへんな仕事でしたが、通院もしながら、こちらの仕事もつづけます」。
「仕事は真面目にするほうなんで、評価もいただいて正社員にならないか」と誘われたと言っている。
「今の仕事とは、ぜんぜんちがいますが、じつは、そう仕事をしながらも、コックになりたいとは思っていたんです。道路公団の入社式の日にコックになりたいから、4年で辞めると言っていたくらいですから」。
「季節労働者を辞め、秋田にもどったのは21歳の時です。出稼ぎで貯めたお金と父親からもお金を借りて『ほっかほっか亭』を始めます」。
なんでも、昔、アルバイトをしていた店が売りに出されていたらしい。
「5店舗、同時に売り出されていたんですが、そのうちの2店舗を私と兄、それぞれ1店舗ずつ買い取ります」。
兄は能代市の店舗、遠藤社長が大館市の店舗。一緒に本部に研修を受けたそう。契約金200万円、買取額は500〜600万円だったというからかなり、思い切った出資である。

1994年、快挙と伝説の数々を生む「らーめん錦」オープン。

「ほっかほっか亭は原価とロイヤリティを合わせるとかなりのパーセントになって、固定費と人件費を払うとほぼ残りません。最初のお店は、売上も前任者の倍にはなったんですが、7年間やりクローズ。じつは2店舗目も出店していますが、こちらはロケーションがまずかったです。デリバリーを増やして、なんとか売上を確保していきます」。
兄と弟が、経営する秋田の「ほっかほっか亭」。
「私もけっこう大変でしたが、兄のほうがさらに大変でした。私の大館市の店自体も大家さんの都合で取り壊すことになってしまいます。『ほっかほっか亭』をするなら貸さないと言われたので、じゃぁってことで、兄といっしょにラーメン店を始めることになります。これが『らーめん錦』の始まりです」
教えていただいた年表をもとに話を進める。
1994年、秋田県大館市に1号店「らーめん錦」オープン、1997年、秋田県大館市に2号店「らーめん錦」オープン(現:大館錦本店)、2003年、秋田県北秋田市に「麺屋うるとら」オープン、2008年、秋田県秋田市に「らーめん錦 秋田本店」オープン。東北で初めて、サークルKサンクス×錦「コラボカップラーメン」を発売するが、即完売となる。
2009年、秋田市に「らーめん錦 秋田分店」オープン。
東北じゃらん3月号の特集に掲載され、「東北+新潟の究極のラーメン」秋田県部門第1位にかがやき、東日本放送主催「あなたが選ぶ東北ラーメンランキング」東北6県内で第3位に入賞している。
2010年には、大館市に「つけ麺屋 焚節」オープン。東京ラーメンショー 2010に初出店し、行列第一位の伝説をつくる。2011年、東京ラーメンショー 2011にて、伝説はつづき、2年連続行列第一位。
2012年、秋田市に「ニシキ土崎分店」オープン。東京ラーメンショー 2012に出店し、3年連続で行列第一位。翌年の2013にも出店し、4年連続、行列第一位、そして、遂に売上杯数ダントツ第一位の偉業を達成している。
これだけではない。大つけ麺博 日本一決定戦2にて、行列が途切れず「ブース閉鎖」という快挙まで達成している。知名度も広がり、2014年には、長野県・軽井沢・プリンスショッピングプラザに「らーめん錦 濃熟鶏白湯」オープンしている。
秋田を代表するラーメンから、日本を代表するラーメンになっている。

台湾とサンディエゴ、海外へ。サンディエゴで、ミシュランに掲載される。

「1号店は兄といっしょに始めたわけですが、2号店からは別々です」。
<1997年にオープンした「らーめん錦」ですね?>
「そうです。今の本店です。40坪くらいの店だったんですが、お店をまっ黄色に塗って目立たせました。こちらで弾みがつきます。1杯450円で月商850万円です」。
ここから先が前述したヒストリーとなる。2014年まで追いかけたが、もちろんこれで終わりではない。海外進出がスタートする。もはや主軸は海外といった出店状況である。
2015年、台湾グロリア・アウトレットに台湾1号店をオープンし、初の海外進出を果たす。翌年、すでに契約満了となり、閉店しているが、台北101に2号店をオープン。2017年にはついにアメリカに初進出。サンディエゴに「麺屋うるとら ULTRA」をオープンする。
その後も、台湾とサンディエゴを2軸に出店をつづける。2017年にはSan Diego’s EATER Awards 2017、2018年には全米グルメサイトEATER RAMEN TOP5に。2019年と2020年には2年つづけてSan Diego City Beat Best Ramen ファイナリストに残るなど数々の賞も受賞している。
2021年にはミシュランガイド カリフォルニア2021に掲載、2023年にもミシュランガイドカリフォルニア2023に掲載されている。
快挙中の快挙だ。
勲章もいっぱい手に入れた。それ以上に嬉しいのは、2人の息子たちが育っていることだろう。
「息子は2人います。2024年の今で29歳と26歳です。長男に日本は任せて、私は今、妻と次男とサンディエゴに住んで、いっしょにやっています」。
2014年で、サンディエゴに住んで7年になるという。英語もペラペラなんだろう、と思ったが、ちっとも、と言ってこちらを笑わせる。
ところで何がきっかけで、海外に進出することになったんだろうか? そして、世界で高く評価されるラーメンはどうして生まれたのか? また、一度、じっくり聞いてみたいと思った。

思い出のアルバム
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黄色に塗ってた頃の本店 20代の頃。夫婦で接客。 約20年前。製麺を始めた頃。
 

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