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第993回 株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏
update 24/04/23
株式会社トーヤーマン
當山鯉一氏
株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏
生年月日 1984年1月5日
プロフィール 5歳から沖縄・那覇市で育つ。高校卒業度、東京でアパレル業界の職に就くことを目標とし、資金を蓄えるため自動車工場で工員として働く。20歳で上京。就職を望んでいたアパレル業界の壁は高く、ある意味、職を転々。悪戦苦闘を重ね飲食業に出会い、魅了され自身の店を持つにいたる。
主な業態 「オオイリヤ」「アタル」「タチアタル」「ジャンソーアタル」
企業HP https://tymn.co.jp/
40歳を迎えたばかり。「30歳代と40歳では、具体的に比較するのは難しいですが、どこか違いを感じますね」と語る、株式会社トーヤーマンの代表取締役當山鯉一(りいち)氏。
沖縄で育った當山氏。上京し彷徨い続け、迷い、悪戦苦闘の末、9年前の31歳のときに居酒屋『オオイリヤ』を開業。以後、独創的なコンセプトを持つ『アタル』『タチアタル』『ジャンソーアタル』を開業するまでの道程を柔らかい口調で丁寧に語ってくれた。

15歳。マックでのアルバイトが飲食業初体験。

「沖縄県那覇市の出身です。ただ、厳密に言うと戸籍は世田谷区の池尻大橋なんです」と出身地を語る當山氏だが、余談ながら付け加えると「池尻大橋」というのは駅名であって、地名も橋もない。おそらく世田谷区池尻もしくは目黒区大橋、東山だと思う。
「5歳までは千葉県の松戸で暮らしていたのですが、両親の離婚に伴い父親と妹は沖縄に、1年後、ボクも沖縄に移転しました」。
―「鯉一」というお名前ですが、どう読むんですか?―
「“りいち”と読みます。鯉の滝登りの諺からきている言葉のようです」。
離婚後、2人の子どもを引き取って沖縄に移り住んだ父親。職を転々とし、おにぎりの移動販売や沖縄そば店を開業するなどに挑んだが残念なことにどれも上手くいかなかったようだ。ただ、決して裕福な環境ではない状況下にあって父親は苦労を重ねながらも、2人の子どもたちに愛情を注ぎ慈しみ育てた。
「実家は古い平屋で隙間風が吹き抜けるような住まいでしたが、年に1、2回ほど回転寿司に連れていってくれたり、凄く嬉しかったですね」と思い出を拾い集める。
幼くして味わった両親の離婚。再婚を躊躇し結局は断った父親。それぞれに“大人の事情”があったのだろうが當山氏は多くを語ろうとしないし、ましてや訊くことでもない。
小学校から中学へ、そして高校へ。
「思い出というほどではありませんが、小学校4〜5年生の頃は野球をしていました。また、いわゆる反抗期というのも記憶にありませんね」。
中学卒業後、地元の県立高校へ進学。そして、高校進学と時を合わせるかのように、地元のマクドナルドでアルバイトを始めた。

時給590円。働き収入を得る喜び。

「求人誌をみて“すぐ稼げる”ということで応募、採用されました。時給は590円でした。収入は、平均的には6万円くらい、夏休みは10万円ほどになりました」。働く=収入を得る。アルバイトを通して「稼ぐ喜びを知った」と當山氏。
―6万円であれ10万円であれ、大金です。特に高校生にとっては大金だったのではないかと思いますが、差し支えなければ使用先を……―
「高校の授業料、お弁当代、洋服を買ったり、交際費〜未成年ながら主に飲み代ですが〜に費消しました」。マクドナルドでのアルバイトは高校1年の4月から高校3年の卒業ギリギリまで3年間続けた。
「最終的にアルバイトの上の地位、トレーナーレベルまで昇格したんですよ。卒業後、進学はまったく考えていなくて就職するという選択でした」
「そう遠くないうちに、卒業のタイミングで沖縄を出てみたいと思っていたので愛知県の会社で働くことにし、応募しました」。

東京への思いを叶える資金を確保。

20人ほどの仲の良い友人とギリギリで卒業。進学の意識はなく働くことを優先的に考えていたが、学校で就職斡旋はなく自分で探すことになった。
―どのような方法で探したのですか?―
「職探しのために友人と職業安定所(ハローワーク)に行きました。希望を伝え紹介されたのが、愛知県刈谷市に本社を置く自動車メーカーのトヨタグループに属する自動車部品メーカー『デンソー』という会社でした。ボクらは西尾市の西尾製作所に配属されました」。
―どんな生活でしたか?―
「いわゆる季節工になるのかなぁ、仕事自体は単純作業でしたし交替制の勤務で寮生活でした。部屋は個室があてがわれ、食費以外の生活費、家賃とか水道光熱費などは全額会社負担でしたから、それなりに貯金することができました」。
―収入は?―
「月収35万円くらいだったですね」。
半年間働き沖縄へ戻ったのだが、東京への思いが立ち切れず、資金を確保するために再度、愛知県へ二度目の出稼ぎに故郷を離れた。
「結局、二度の出稼ぎをしたのですが、一度目は自身の欲求を満たす私利私欲のため、二度目は東京に行くための資金確保のためでした」。資金は溜まった。
いざ、東京へ!

資金を手に沖縄を発ち、1900q離れた東京へ。

沖縄県那覇市から東京までの距離は、約1900q弱。この距離を乗り越え、手にした資金を携えて高校時代の友人3人と上京。住まいは西東京市の田無に3人それぞれ部屋を借り東京での生活がスタートした。20歳のときだった。
「上京して驚いたのは、ヒトの多さでした。渋谷駅前のスクランブル交差点の人の波にビックリしカルチャーショックを受けましたね」。ちなみにこの交差点を渡る人数だが、正確に数えたわけではないので大雑把な数字になるが、一説によれば約3000人が一度に行き来をするらしい。
「アパレル関係の仕事に就きたかったんです。ただ、コトは簡単ではなく上京後、半年くらい、貯金が200万円ほどあったので、ほぼ毎日、友人と飲んでいましたね。上京した動機でもあるアパレルの仕事もなかなか見つからなくて……」。
―仕事がなければ収入もないわけで、いくら200万円あっても目減りしたのでは?―
「コンビニのアルバイトや美顔器のキャッチセールスなどで収入を得ていましたが、田無に友人と一緒にいても何も変わらない“東京のなかの沖縄”だと思って、環境を変えようと思いました」。
―どうされたのですか?―
「思い切って下北沢に引っ越しました」。
単独で生活拠点を構えた當山氏に、少しずつ「光」が見えてきた。念願だったアパレルでの仕事に就くことができた。
「アクセサリーショップの仕事、これはマルイのメンズ館でしたし、東京駅丸の内の新丸ビルにオープンしたブランドのオープニングスタッフとしてのアルバイトなどでした。ただ給与など待遇は決して良くなかったし、苦労していましたね。そこで得られた結論は“アパレルでは稼げない”ということでした」。
一方で、経済的に不都合な問題も抱えていて、環境を変えたいとも思っていた。

「好きなことしたら……」。飲食の道へ繋がった友の言葉。

逃げるようにして横浜に住んでいた友人の部屋に転がり込んだ。そこで友人がかけてくれた言葉が、飲食業へ進み生涯の生業(なりわい)となるきっかけになったと當山氏は振り返る。
―どんな言葉をかけてくれたのですか?―
「基本的には甘やかしてくれました。そして、こう言ったんです。『好きなことに取り組んでいるキミでいて欲しい』と……」。友の言葉に揺さぶられた。
―具体的にどんなアクションを起こしたのですか?―
「横浜のクラブのオープニングスタッフとして採用されました。その後は中目黒や神泉のカフェやレストランで働きました。大したことをした記憶はないのですが、この時期に“飲食業の楽しさ”を知りましたね」。
4〜5年経ってカフェの店長に。27歳になっていた。
「飲食業の面白さ、楽しさを体感して飲食業で独立することを考え出しましたね。ただし、
すぐに独立したかったのですが、無謀なことは避けたかったので、ご縁のあったアドバイザーに相談しました」。
―アドバイザーはなんと?―
「『独立するなら29歳か31歳が良い』とアドバイスいただきました」。

入谷と大入りをかけて『オオイリヤ』。

開業のための物件探しが始まった。
「当時、北千住で働いていたので北千住の物件を探しましたが、コレッといった物件に巡り合いませんでした。ただ、いわゆる下町風ですか、昔ながらの雰囲気が気に入っていたので……」こうして見つけたのが、現在、『オオイリヤ』が店を構える台東区入谷だ。『オオイリヤ』という名は、「大入り」と「入谷」とを掛け合わせたものである。
ご存知の方もいらっしゃると思うが、入谷は、地理的にいえば浅草、上野に近く、毎年七夕の季節に開催される“朝顔市”が有名だ。“恐れ入りやした”と“入谷”とを掛けた“恐れ入谷の鬼子母神”という洒落が有名な地でもある。『オオイリヤ』という店名も入谷伝統(?)の単語と単語とを掛けて命名したのかもしれない。
オープンは2015年10月。アドバイスされた31歳のときだった。
『オオイリヤ』は、大きなガラス窓からもれる店内の温かい雰囲気が印象的で話題になり瞬く間に人気店になった。
そして2018年6月には『アタル』オープン。同年11月には株式会社トーヤーマン設立。以後、2020年5月『タチアタル』、2021年12月『ジャンソーアタル』をオープン(3店とも足立区千住)。
「お店を運営する7つのルールがあります。突き詰めればスタッフ、お客さま、業者さんの三方が幸せになれる企業を目指していますし、常にサービス目線で考えることを重視しています」。
時期は明言されなかったが、次の出店予定地は台東区御徒町。入谷、千住同様に江戸時代から続く下町の風が漂っている街だ。
アパレル業界で働くことを夢に沖縄を飛び立った少年は、東京の波に揺れ悪戦苦闘しながらも「好き」な飲食業で生きる道を確立した。
“一念、岩をも通す”という諺がある。その意味するところは、“強い心をもってすれば、どんなことでもできるのだ”ということ。當山氏が体現、証明している。

思い出のアルバム
 

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