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第997回 株式会社ケンティーズキッチン 代表取締役社長 橋口賢人氏
update 24/05/07
株式会社ケンティーズキッチン
橋口賢人氏
株式会社ケンティーズキッチン 代表取締役社長 橋口賢人氏
生年月日 1987年10月14日
プロフィール 日本歯科大学卒。親族のほとんどが、ドクターといった秀才。スノーボードでプロになり、世界を遠征。バックパッカーでもう一つの世界を知り、世界にリーチできる仕事を志向。世界中で食べられている鶏肉と、アジアの伝統的な調理法、「揚げる」をミックスした日本のからあげに着目。研究を重ね、オリジナルレシピを開発。唐揚げ発祥の中国で出店したのち、帰国。友人をサポートするために渡った沖縄の座間味島で、観光の一助となればと発売した「ケンティのからあげ」が、大人気に。からあげグランプリなど、数々の賞を総舐めする。
主な業態 「ケンティーズキッチン」「せんから屋」
企業HP https://www.kentyskitchen.co.jp/

からあげグランプリ『最高金賞』受賞。

ホームページの一文から話を始めるのほうが、話が早い。ホームページには、つぎのように書かれている。
<沖縄県座間味島で始めたからあげ専門店>
<沖縄の離島にもかかわらず、多くの方から『美味しい』と暖かい声をいただき、第10回日本唐揚協会からあげグランプリ『金賞受賞』、第11回日本唐揚協会からあげグランプリ『金賞受賞』、第12回日本唐揚協会からあげグランプリ『金賞受賞』、3度の金賞を経て、4年目にして『最高金賞』をいただくことができました>
そして2022年には、2年連続の素材バラエティ部門『最高金賞』受賞とつづいている。
これを聞いただけでも、だれもが、一度は食べてみたくなる唐揚げだ。
ちなみに、唐揚げに用いる鶏肉は、大半の宗教が禁じていない世界でもっともポピュラーな食材の一つである。この話も念頭に置き、『ケンティのからあげ』の生みの親である、ケンティーズキッチンの橋口社長の話を聞いていく。
話はまるでちがう方向から始まった。
「父方の親族は、私以外、ほぼ全員、医療にかかわっています。一族、みんなドクターと言っていいかもしれません。私自身も、都内の歯科大学に進んでいます」。
異色の経歴が浮かび上がる。
ドクターとからあげ。共通項はどこにある? では、いつも通り、その謎も含め、少しずつ紐解いていこう。
橋口社長は、1987年10月14日、東京で生まれている。「生まれも、育ちも東京」。東京、育ちの橋口社長が、なぜ、沖縄県座間味島でからあげ専門店を始めることになるのか、ストーリーの奥は深い。

世界へ連れ出してくれたスノーボードと、世界で出会った唐揚げと。

「私は、歯科医師の息子として生まれます。幼稚園から高校までミッション系の一貫校ですごし、日本歯科大学に進学。当時は医療人になりたいと思っていました。小さな頃からからだが弱く、親族のなかでも、私だけ身長が低い。重度のアトピーも患っていました」。
「スノーボードを始めたのは8歳の頃からです。スノーボードは、からだの弱い私にピッタリなスポーツでした。雪の上では、みんな対等です」。
雪山に行くと、みるものすべてがキラキラしていた。滑り始めるとコンプレックスから解放された。からだが小さいことも忘れた。
「からだが弱い私を、スノボーが世界に連れだしてくれました」。国内でプロのライセンスを取り、メディカルコーチとして1シーズン、トップ選手たちとワールドカップに帯同したこともある。
それが一転、バックパッカーで亜熱帯を回るようになる。これが29歳の時の話。
海外を転々とするなかで、心が揺れ動いていく。
スノーボードと唐揚げ。
「じつは、学生時代から日本の伝統文化を海外に発信する仕事に就きたいと考えていた」と橋口社長。大学、在学中から、唐揚げレシピの研究を始めている。
全国から醤油を取り寄せ3年がかりで専用のたれを開発したという。歯科医師は遠のくが、日本の伝統文化を海外へという壮大なミッションが、生まれ、育まれていく。
「偶然ではなく、必然だった」と橋口社長はいう。

ボーダーのない鶏肉は、世界一ピースな食べ物である。

「鶏肉って、ボーダーのない、ピースな食材なんです」と橋口社長はいう。
「多くの宗教が鶏肉を禁止していません。鶏肉が唯一の動物性タンパク質という国が少なくないのは、そのためです。亜熱帯では『揚げる』という文化が根付いています。魚も揚げます。日本では、漬け、干すが保存性を高める一般的な方法ですが、亜熱帯では『揚げる』だったんです。そういうことにも気づき、世界に通用するだろう唐揚げの可能性を追求してみたくなります」。
唐揚げは、唐というだけあって中国が起源と言われている。中国の普茶料理のなかに現在の唐揚げに似た食べ物が入っていたそう。もっとも、現在、私たちが食べる唐揚げは、立派な和食なんだそうだが。
「ともかく、起源が中国でしたので、じつは私も、中国に渡っています。唐揚げを奥深く、研究するためです」。
 2017年、橋口社長は中国に渡り、深圳(しんせん)のデパートで唐揚げ専門店を開業している。
「オープン当初は、向こうではたらく日本人に好評で、業績も順調だったんですが」。
日本の大手企業が撤退して、一斉に日本人がいなくなったらしい。
「私には、何があったかわかりませんが、日本語をしゃべらないように注意されました。客足が落ち込み、クローズを余儀なくされてしまいます。もっとも、そこでの経験が今にもつながっているので無駄ではなかったし、自信もついたので収穫は多かったです。ただ、帰国以外に選択肢がなかったのも、事実です」。
橋口社長の中で、ピースの3文字が、ちがった形になったのではないだろうか。
「沖縄に渡ったのは、中国から帰国してからの話です。友人の1人が、突然、沖縄の座間味島という小さな島に帰らなければならなくなり、その友人をみんなでサポートしようと、有志が沖縄に渡ります。私もそのなかの1人です」。
2018年8月とのこと。
ともだちのダイビングショップを手伝いながら、島人たちとも親交を深めたそうである。ちなみに、このとき、橋口社長が滞在した座間味島は、沖縄本島から西へ約40キロの離島。
ランニング程度のスピードで走っても、1時間で周りきれる小さな島だそうである。そして、この島で様々な賞を総なめする「ケンティのからあげ」が誕生する。

80億人のキャッチャーミットに向けて。

「ドクターになるというのは、今でも頭にあります。おじいちゃんとも約束していますから。ただ、今は、まだ、日本食を世界へです」。
親戚のだれもがいう唐揚げ好きの少年。将来、ドクターになると、本人も、そして、だれもがそう思っていたが、唐揚げを一口食べた時から、もう一つのストーリーが始まっていたのかもしれない。
現在、沖縄のすべてのイオンを含め、合計50店舗で「ケンティのからあげ」の味を楽しめる。
「沖縄のイオンは39店あるんですが、そのお惣菜コーナーで私どものタレを使っていただいています」。
肉はヤンバル鶏、タレはケンティ。売上の一部は、寄付にまわっているそうだ。
「ケンティのからあげ」からもう一つ生まれた作品が「せんから®」。浅草の老舗せんべい店「壱番屋」と組み開発した、うるち米の香ばしさと、鶏肉本来の食感が楽しめる、ユニークな唐揚げだ。
こちらは直営店での販売となり、神社仏閣など伝統のある町に、出店を始めている。京都の伏見稲荷神社のエリアにも出店している
ただ、構想はこれで終わらない。橋口社長は、ハラールに目を向ける。
「2021年に日本一になって、日本の唐揚げを背負って立つ存在としてスタート地点に立ったと思っています。そして、世界に目を向けると、日本とはまた異なった世界が映ります」。
「2020年から直営店も始めましたが、ケンティーズキッチンの正体は、タレのメーカーなんです。タレのメーカーと位置付けると、日本の1億2000万人のキャッチャーミットより、世界80億人のキャッチャーミットに投げ込むほうがいいでしょ。だから、今、そこを望み、ハラール認証のタレの製造にチャレンジしています。ムスリムは、世界の人口の22.9%を占めています。文化やGDPからみても、ムスリムのパワーは、今後、世界に広がって行くことが確実視されています」。
2050年には、3人に1人がムスリムになると言われているそうだ。
「わかりやすく、日本に閉じて言うと、インバウンドですね。彼らは、日本のトラディショナルを体験したいと来日するのですが、旅行に行くのにまず調べるのはレストラン、つまり、ご飯を食べるところです。彼らはハラール認証のレストランを探すところから旅を始めるんです」。
「これは、私が鶏肉に目を向けたときとおなじですが、食のボーダーをなくすためには、ハラールの認証はさけて通れません。これが、できることで、私たちが投げるボールは豪速球になる」。
構想は、ハラール認証の、日本初「醤油系万能調味料」づくり。ベースは、ケンティーズキッチンのタレになるんだろう。国境なく、宗教のカベも超えた食をつくる。橋口社長流に言うと、「食を持って和を成す」である。
ちかい時代、そんなハッピーな世界が生まれてくれば、と願う。
「工場をゼロからつくらないといけないんで、ハードルは高いんですが、ロードマップは、もう完成しています」と自信をのぞかせる。
インタビューの中で橋口さんは、座間味島について、こう語っている。何にもないが、何でもある。ハブがいないから、ターザンのように靴なしでジャングルを駆け回れる。
「偉い、偉くない」なんて人がつくった序列も関係がない。ただ、大自然に抱かれるだけ。私は、ここで、人を取り戻しました。
そして、そこは、橋口社長の第二章の始まりとなった。もちろん、そのストーリーは、まだまだ終わらない。

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