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第248回 日本サブウェイ株式会社 代表取締役 伊藤 彰氏
update 11/10/18
日本サブウェイ株式会社
伊藤 彰氏
日本サブウェイ株式会社 代表取締役 伊藤 彰氏
生年月日 1958年12月3日
プロフィール 神奈川県に生まれる。野球好きの父親の影響を受け、リトルリーグに所属。中学からは卓球をはじめ、県大会にも出場。松坂など有名な野球選手を輩出する横浜高校を1位の成績で卒業し、明治大学商学部に進学。学生時代は、日本中を旅し見聞を広げる。商社希望だったが、自由な風土に惹かれサントリーに就職。1986年、国際部レストラン事業部に異動し、88年には副支配人としてスペインマドリードに赴任。91年には、レストランサントリーマドリード総支配人に昇格。98年4月には、日本サブウェイ取締役営業部長、99年4月には取締役マーケティング部長、2000年4月常務取締役営業本部長など、要職を歴任し、2003年10月、代表取締役、社長に就任する。
主な業態 「サブウェイ」
企業HP http://www.subway.co.jp/
SUBWAYが好調だ。一時、150店から93店に落ち込んだ店舗数は、2011年9月末現在、300店舗となり、切り返すどころか全盛期を大幅に上回っている。 このV字回復の立役者である、日本サブウェイ株式会社 代表取締役 伊藤彰に話を伺った。

リトルリーグで白球を追いかけた少年。背丈が足らず断念。

伊藤が生まれたのは1958年の横浜。いまの新横浜駅近く。当時はまだ開発が進んでおらず、田畑が広がっていたそうだ。「私も小さな頃、畑仕事を手伝ったことがある」と伊藤。1958年といえば、まだ新幹線が通る以前の話である。
横浜は母の出身地で、母方の親族に囲まれ少年期を過ごしている。「祖父が建設会社を興しました。母方の親戚が集まって、会社を運営。私の母を含め、3家族が、徒歩圏内に住んでいました」「私も、良く祖父の家に行きました。いまでもいちばん影響を受けたのは祖父だと思っています」。祖父は厳格だが、優しかった。大人たちと区別することなく、対等に接した。それが嬉しかった。
伊藤の父は、中小メーカーのサラリーマン。大の野球好きで、暇があると熱心に伊藤に野球を教えた。父の勧めもあったのだろう。小学2年生から野球を始めた伊藤はリトルリーグに入り、主将を務めるまでになっている。スポーツ好きな父から遺伝子を受け継いだのだろう。運動神経は抜群だった。「でも、背丈が足りなかったのです。小学校6年生ぐらいになると、170や180センチの奴もいました。私は140センチ足らず。とても敵わないと思って中学に入ると卓球に転向します。現ジャイアンツの原監督とも同世代で、小学校の頃に1度だけ対戦しました」。選手層が厚かったのだろう。草野球とはレベルも違えば、この決断も当然だ。普通の軟式チームなら、伊藤のこの時の決断はなかったはずである。

野球から卓球に転向熱中。明治大学に進学する。

いまも横浜は野球が盛んなエリアである。高校でいえば、松坂などの出身校、横浜高校が有名だ。伊藤はこの横浜高校に進学している。「中学になって勉強をしなくなりました。中学受験に失敗したのが原因かもしれません。カラダを動かすのは好きだから卓球は真剣にやりました。公立の中学だったのですが、割と強かったです。県大会で優勝もしています。でも、勉強しないから進学校には行けなかった。今では進学にも力をいれているが、野球では当時から有名な高校だったのですが」。
中学から始めた卓球は、高校でも続けた。背は低いものの敏捷な少年が果敢に動き、ピンポン玉を打ち返す様子が想像できる。ただし、高校時代から身長はグングン伸びた。測定値でいえば25センチ。友人と文字通り肩を並べるようになっている。一方、学業でも、数値が伸びた。「中学、受検で失敗した経験がありましたから、大学受験は頑張らなければと2年の頃から猛勉強をしました。それで学校で1番になるんです」。ただ、大学受験でもいい結果は残せなかった。野球断念、中学受験の失敗につづき、これが3度目の挫折だった。いま振り返れば、これらの挫折を乗り越えたことで、伊藤は、強い意志を持つようになった気がする。
結局、目指していた早稲田には入れず、明治大学に進学。だが、明治の自由な校風は、伊藤にはピッタリだったかもしれない。バイトをしては、貯めたお金で旅行に出た。旅行先では寺の和尚さんに説教を食らったこともある。人との出会いや触れ合いが、青年、伊藤を育てていく。「将来は商社に入ろう」と、国際関連のゼミに入った。門戸が狭いゼミだったが、今回は思い通り、無事、潜り抜けることができた。大学3年〜4年時には、国際経済という、4大学主催でテーマを決めて討論会をする幹事を務めている。

サントリーから子会社「ファーストキッチン」への異動願いを出す。

「ゼミで、いろいろな先輩に出合いました。バイトや旅行で見聞も広げました。商社希望だったんですが、就職したのはサントリーでした。当時から人気が高く、入れないと思っていたんですが、トントン拍子に内定をもらって。私の同期には、酒が好きだからサントリーという人間もいますが、『やってみなはれ』に象徴されるサントリーの自由な気質に惹かれたんです」。
この【飲食の戦士たち〜プロフェッショナルたちの仕事(じんせい)論】にも、当時の様子を知る戦士たちが多数登場している。少しご紹介すると、ミュープランニングアンドオペレーターズの吉本氏ダイキチシステムの牟田氏まい泉の岡本氏コメダコーヒーの布施氏など。興味があればそちらも一読いただきたい。
さて、見事、狭き門をくぐり抜けた伊藤だが、すぐに酒とビールの洗礼を受ける。飲み食いし、半年で15キロ太った。「毎日、バーを梯子します。バーには、一軒、15分ぐらいでも、ともかく顔を出す。そのうちあるお客様から店の経営を知っている人と仕事がしたいと言われたのです。それはそうだ、と。私自身、コンサルティングができる営業になりたいと思っていましたから。そこで、ファーストキッチンでの店長経験をしたいと、当時の上司に出向を願い出たのです」。
話を聞いた上司は、入社して2年足らずの人間が何を言っているのかと一蹴された。怪訝な表情で引き止めたに違いない。だが、伊藤の意志は固かった。幸い、当時の社内募集で海外レストランの店長公募がありました。そこに上司に内緒で応募。見事異動が叶ったのだった。

国際部海外レストラン部に異動する。

伊藤は27歳になっていた。国際部海外レストラン部に異動。当時、この部門では、ブラジル、メキシコ、ロンドン、パリ、オーストラリアなど海外に30軒の「レストランサントリー」を作ろうという計画が持ち上がっていた。探究心にまたまた火がついた。最高級のおもてなしを知るために高級店を梯子する。経営を知るために、今度は簿記2級を取得し、経理システムや輸出システムも開発した。「文系だったんですが、高校時代は理系でしたから、実はシステム開発などにも興味があったんです」。
オールマイティという言い方をすれば怒られるだろうか。だが、何事にも興味を持ち、探究することで、自らの活動領域を拡大していった、その結果、何でもできる、オールマイティな人材となっていったのは間違いない。「こいつは使える」、当時の上司たちはそう思ったに違いない。新たな指令が下されたのは、伊藤29歳の時である。

スペインへ飛べ。

「29歳の時でした。結婚してスグです。スペインに直営店をつくることになり、白羽の矢が立ったんです。むろんスペインとは縁もゆかりもありません。ただ、行ってみようと。嫁さんもついて来てくれました。結構、社交性があって、私より向こうに馴染んだんじゃないでしょうか。実は、2人の子どもはスペイン滞在中に生まれました。この時の店は、著名人も利用されるような店に育ち、世界11ヵ国17店舗になります」。
こうして海外勤務も経験し帰国した伊藤に、今度は、日本で展開しているSUBWAYへの出向が命じられた。いままで経験した直営店と異なり、SUBWAYはフランチャイズチェーンだった。伊藤にとってFCビジネスは初めて。探究心旺盛な伊藤は、スグにFCオーナーを訪ねまくり、話しまくった。もともと旅行好きだ。各地を回ることに苦はない。だが、オーナーたちと話をするたびに苦い思いをした。「全部の店舗がうまくいくとは限らないんです」。オーナーから叱責されたこともあっただろう。オーナーたちには生活がかかっている。罵倒されても、不思議ではない。だが、伊藤はめげず根気よく行脚を続け、信頼関係を深めていった。「最初は3年程度だと思っていたのですが、オーナーたちと親しくなると私一人逃げだすわけにはいなくなりました」と振り返っている。

SUBWAYへ異動後、訴訟が起こる。

1998年、伊藤がSUBWAYに異動してしばらくするとSUBWAYは、閉店した元加盟店の複数のオーナーから「本部の売上予測が甘く、本部だけが利益を上げる不公平な契約だ」と訴えられた。これが前述の行脚の始まりとなる。「店舗が儲かるしくみを作らなければダメだと真剣に考えるようになったのはこの時です」と伊藤は振り返っている。
また、伊藤が社長に就任した2003年には、ブレッド事件があった。SUBWAYからパンがなくなり、店が開けられない状態に陥った。FC店に対する補償はどうするのか、伊藤は駆けずり回ることになる。事件の詳細はこうだ。1999年にSUBWAYは、サンドイッチのパンを米国製から日本人好みのニュージランド製に切り替えていた。それから数年経った2003年、パンのなかに日本では認可されていない添加物が含まれていることが判明したのである。むろん米国やEU諸国では一般的に使用されているもので健康被害はない。だが、日本での認可が下りていないものには間違いなかった。だから、13都府県、94店舗で、サンドイッチの販売を自主的に中止した。苦汁の決断である。1ヵ月ほど眠られもしなかった。だが、この苦境がオーナーたちとの間に絆が生まれ新たな出発のバネになる。

社長、就任。

伊藤は次々、新たな方向を打ち出した。なかでも2005年から取り組んだ小型パッケージ化が効果を上げる。標準店舗を15〜20坪に。月商で300〜400万円を目安にするパッケージに再構築したのである。同年より、凍結していたFC加盟店募集も再開。本部も積極的に出店地域選びに関わるようになる。2006年には、店舗でトーストできる設備を整えた。トースター機能とレンジ機能を兼ね備え、15秒でトーストできるシステムを導入したのである。これによって、日本人が好む温かみのあるパンではさんだサンドイッチを提供できるようになった。まだ、ある。2007年、クレド的なブランドブックをつくり、2008年には、ブランドロゴに、野菜の、という吹き出しをつけた。
SUBWAYのコンセプトが明確になった。野菜のSUBWAYを実現するために、伊藤自ら農家を回った。土地の改良にも力を入れる。野菜プラントもつくった。
このような試みを繰り返すなか、SUBWAYに伊藤の遺伝子が組み込まれ、いまでは逆風をもろともせず躍進するに至っているのである。実際、一時100店舗を割った店舗数は、全盛期を超え、280店舗超になっている。年内にもまだ数十店舗の出店予定がある、と伊藤はいう。社長就任7年目の円熟ぶりが伺える。

十分でなく、十二分を追いかけろ。

人に言われたことを100%忠実に行う人がいる。だが、伊藤は、それでは満足しない。もっとも影響を受けたという祖父から常に、「十分ではダメだ、十二分が大事だ」と教わってきたからだ。この二分に大きな違いが生じる。
伊藤の生き様を見ていると、たしかにその二分が、伊藤の人生に大きな転機を次々与えてきた気がする。一方、この二分を生みだす力とはなんだろう。それを「探究心」というのは、間違っているだろうか。
いずれにしても、社長に就任し、7年。
伊藤は一つの答えを出した気がする。かつて膝を交え語ったオーナーたちの、またサンドイッチを出せなかった時も決して離れなかったSUBWAY ファンの人たちの思いに答える、現時点では、間違いなく十二分の回答を。

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