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第501回 キリンシティ株式会社 代表取締役社長 村田 毅氏
update 15/09/29
キリンシティ株式会社
村田 毅氏
キリンシティ株式会社 代表取締役社長 村田 毅氏
生年月日 1961年3月21日
プロフィール 群馬郡箕郷町(現、高崎市)に生まれる。慶應義塾大学卒業後、キリンビールに入社。鹿児島支社長を皮切りに、様々な要職を経て2015年3月、現職のキリンシティ株式会社、代表取締役社長に就任する。
主な業態 「キリンシティ」
企業HP http://www.kirincity.co.jp/
前回掲載 第401回 大木忠彦氏
第317回 佐部成彦氏

群馬県群馬郡箕郷町。いたずらっ子、村田少年。

群馬県群馬郡箕郷町。この地名はもうない。平成の合併により2006年に高崎市に編入されたからだ。この田舎町に代々続く商店があった。それが今回、ご登場いただくキリンシティ株式会社、代表取締役社長、村田毅氏の生家である。
村田氏が生まれたのは昭和36年。3月21日の早生まれだが、同級生のなかでも背が高く、ガタイがいい少年で、小学校の頃は柔道の道場に通っていた。
「柔道をはじめたのは、父の影響です。学徒出陣でビルマに出征していたということもあって、とにかく厳格且つ真面目で、酒も飲まず、ギャンブルも一切しない人でした。男ばかりの3人兄弟で、私は次男。3人共厳しく育てられましたが、特に私は親父に殴られて育ちました(笑)」。
兄も小学生から柔道をはじめ、中学でも柔道を選択したが、次男の村田氏は軟式テニスに転向。高校でラグビーを始め、その後そちらに熱中するようになる。
「元来、お調子者で、いたずらっ子。小学生の頃は女の子のスカートめくりが私の得意技だったような子供でしたから、女子からはあまり好かれていませんでした(笑)。当時は男女共学だったのに惜しいことをしました。というのは、高校は男子校だったため、結局、学生時代に浮いた話はあまりありません(笑)」。

ラグビーに熱中した高校、大学時代の話。

村田氏が進学した男子校は「高崎高校」と言って、群馬県では有数の進学校である。東大に進学している生徒も少なくない。公立の進学校だったが、ラグビーの強豪校でもあった。
「当時の群馬県では、いちばん強い学校でした。ただ、今と違い『花園』に行くためには、あと1勝しなければなりませんでした。隣の埼玉県の優勝校と戦って、2県で1校の代表校が決まるのですが、その1勝が遠かった。ぜんぜん歯が立たない。だから、いくら群馬県で勝っても、花園には行けなかったんです」。
村田氏はフォワード。とにかく、ガタイがデカかったからだそうだ。
大学は、1年浪人して「慶應義塾大学」に進んだ。
「大学でも引き続き、ラグビーです。部員は100人くらい。同級生は、入部当初30人以上いたのですが、うち10人くらいはすぐに辞めてしまいました。鉄拳? う〜ん、慶応はそういうのはなかったです。ただ、練習はとんでもなく厳しかった。全体練習もさることながら、その前後にジュニア練習というものがあり、また更に就寝前のジュニア体操というのがあって、兎に角ハンパなかった」。
「うちは1年、2年がジュニアで、3年、4年がシニアという制度で、このジュニア練習とかジュニア体操はその名のとおりジュニアが対象です。特にジュニア体操は『体操』とは名ばかりで、毎日毎日門限(23:00)後に、腕立、腹筋、スクワット等を延々と…そうですね、1時間半はやらされるんです」。さすがにガタイのいい村田氏でも、へたばったそうだ。
そんなこともあり、村田氏は、1年時に単位が足らず留年している。
「親父に怒られました。なかなか許してくれなかった。でも、2年目、と言っても留年したのでまだ1年生ですが、2年目から試合にも出るようになって、親父も秩父宮ラグビー場や国立競技場に観戦に来てくれました。新聞の記事も小まめにスクラップしてくれていたようで。そういう意味では若干親孝行できたし、留年したことも少しは許してくれていたんじゃないでしょうか」。

キリンビール一筋。39歳で支社長に抜擢。

慶應のラグビー部。就職に困る要素はまったくない。元々メーカー志望であった村田氏は、「キリンビール」に進んでいる。1浪、1留しているから就職したのは1985年。当時、「キリンビール」は、ガリバーというより、モンスターだった。
「ナンバー1ですよね。絶対的な。私は、物流からスタートし、半年後に営業に異動。それから8年くらいデパートやスーパー、コンビニなどの量販店を担当。その後2年間、内勤で営業企画をやり、更にエリアの営業も経験し、39歳で鹿児島の支社長になります。ただし、もうこの時のキリンは絶対じゃない。アサヒスーパードライ発売から、アサヒビール社がシェアをのばし、キリンの牙城を次々、奪っていったんです」。
アサヒスーパードライが登場したのは、実は、村田氏が「キリンビール」に入社した2年後の1987年のことである。スーパードライが登場すると、それまで「キリンビール」の牙城であったエリアも含め、日本のあらゆるエリアが、オセロの色がかわるように次々とアサヒ色に塗り替えられていった。むろん、キリンビールも黙ってはいない。シェアを奪回するため奔走する。村田氏は、先頭に立って奔走した。
それが、村田氏のキリンビール人生でなかったか。さて、2015年3月、村田氏自身、思いもしなかった辞令が下りる。それが、キリンシティ、代表取締役社長就任」という辞令だった。

2015年3月、キリンシティ社長に就任。

「キリンビール」は、村田氏にとってどういう存在なのだろう。入社して数年、営業だった村田氏は、「アサヒの足音」を聞きながら、戦った。しかし、スーパードライが発売すると、あれよあれよ、と形成が逆転。今度は「アサヒビール」の背中を追いかけて、奔走した。
追いかける立場になった。だからこそ、わかったこともあったかのではないか。
セブンイレブン社を担当した時には、「担当のマーチャンダイザーから様々なことを教えてもらった」と村田氏。いまも感謝しているという、そのマーチャンダイザーとは現在も交流がある。
追いかける立場だったから、素直に吸収できることも少なくなかったはずである。
39歳で鹿児島の支社長になる。
ある意味、「キリンビール」ひと筋。
しかし、いま村田氏がいる「キリンシティ」は、「キリンビール」とは異なる、もう一つの世界。「ラグビー」がいきなり、「サッカー」にかわったようなものだろうか。
 とはいえ、村田氏の話を聞いていると戸惑いすらないように聞こえる。
「業績がいい。それもあるんだと思います。今年の3月と4月に3店舗をオープンしたんですが、これら新店が好調です。とくに、4月にオープンしたタワーホール船堀店の調子がいい。私どもにすれば、郊外の住宅地立地というのは初めてで『大丈夫か?』という声もあったんですが、蓋を開ければ良い意味で予想を大きく裏切る売り上げで、私も含めみんなびっくりしています」。
「キリンシティ」。育ってきた畑とは違うが、業績と言う意味では、文句なし。人材も、たわわに実っている。ビジネスマンとして第一線を走ってきた村田氏にとっては、戸惑いよりも、やりがいのほうが大きい、ということなのだろう。
現状を手放しで喜んではいないことからも、村田氏の事業にかける思いが透けてみえる。

社長、ブレーキを踏む。

「おかげさまで、既存店が昨対で100%を超えていますので、新店の業績がそのまま全体の業績を押し上げる格好となっています。48億円だった売上計画も、すでに51億円に見直しています」。
たしかに、絶好調である。「来年は更に出店に拍車をかける」という話になるかと思っていたが、そうではないらしい。村田氏は、敢えてブレーキを踏む。
「サービスの低下。それが怖い。だから、これからは出店にブレーキをかけ、人材の育成のため、教育というアクセルを踏みます」と村田氏は言う。
<日本で一番、お客様と従業員が「笑顔」になれるビアレストランに。>
たしかに、「キリンシティ」のコンセプトからすれば、ブレーキを踏むのは当然のことと言えるだろう。しかし、人は功を欲するものだ。就任したばかりの社長にとっては、尚更だろう。実際、自身が社長のうちは「無理をしても、業績が上がればいい」という経営者も少なくない。
そこを間違わず「ブレーキを踏む」という選択をする。そこが村田氏の凄さであり、「キリンビール」という組織の強さだと感じた。
実は、今回の村田氏で、「キリンシティ」の社長取材は3人目となる。しかし、まるで同じ経営者のように、事業が引き継がれていく。そこが凄いと思うのだ。
事業の継承。村田氏は、そこに情熱を注ぐ。
つまり、「日本一の笑顔」。社長が替われども、めざすのは、そこ。素敵なビアレストランは、こうした継承の下、出来上がる。

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