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第620回 株式会社梅の花サービス西日本 代表取締役COO 吉田 訓氏(旧姓 児玉)
update 17/12/19
株式会社梅の花サービス西日本
吉田 訓氏
株式会社梅の花サービス西日本 代表取締役COO 吉田 訓氏(旧姓 児玉)
生年月日 1973年11月17日
プロフィール 「梅の花」に入社し、2年で副店長(実質、店長)となる異例の出世を遂げる。28歳で営業課長となり、不採算店などの立ち上げで人間力を発揮。2017年、株式会社梅の花サービス西日本の代表取締役COOに就任する。
主な業態 「梅の花」「CHINA梅の花」「かにしげ」「花小梅」
企業HP http://umenohana-restaurant.co.jp/

小学6年生。4人でパーティを組み、300キロの旅にでる。

「こだまく〜ん」。グランドにいると校舎の窓から歓声が降ってきたのは、高校時代の話。中学は卓球部。恋の話もある。仲間といっしょに自転車で300キロの旅をしたのは、小学6年生の時。
「いま、こうしてお話しているといろんなことを思い出しますね」と、今回、ご登場いただいた株式会社梅の花サービス西日本、代表取締役COO、吉田訓氏。ちなみに、吉田氏は旧姓を児玉という。戦国武将である毛利家の末裔なのだそう。冒頭と、以下は、そちらの児玉の姓で話を進める。
「父方の祖父は、下関で学校の校長などを務めた人です。父は、生命会社で勤務」。父親の仕事の関係だろう。広島県の福山市に落ち着くまでは、転勤もそれなりにあったそうだ。
「もう1人の母方の祖父は、国鉄で勤務。福岡では要職にも就きますが、48歳で早期離職したと聞いています。私はこの福岡の祖父に溺愛されて育ちました/笑」。
初孫なのだという。記憶にはないが0〜3歳の頃は、特別に新幹線の運転席にも座ったことがあるそうだ。当然、鉄道が大好きになる。
「小学校に上がってからは、夏休みになると決まって1人で新幹線に乗って、母方の祖父の家に向かいました」。駅では、祖父が今か今かと待っている。そして、児玉氏は、丸々、1ヵ月、祖父の家で過ごした。
「小学校時代のいちばんの思い出は、仲間4人でパーティを組んで、自転車で300キロの旅をしたことですね。そうです。福山から下関まで。パンクして泣くわ、帰るといって駄々をこねる。そういうのをなんとかなだめすかして」。
高速道路ならわずか3キロの道のりが、一般道のため15キロ。アップ・ダウンの坂を上り下りしついた先の、高速道路の出口には自転車70円と書かれていた。そんな笑い話もある。
「とにかく、そうやってですね。祖父の家につくんですが、最初、みんなでやったことは風呂に入って、尻が3つに割れていないかどうかを確認することでした/笑」。
尻はサドルにこすられ、ヒリヒリしていた。
中学は、1人の少女に憧れ、彼女とおなじ卓球部に。しかし、「好きだ」という思いを口にすることなく、卒業する。
「中学の時は、ちょっとくすぶった時代ですね。だいたい、児玉っていえばこういう奴ってイメージがついていて」。なかなかはっちゃけることができなかったそうだ。5歳からピアノを習っていて、学校で演奏もした。なんとなく、児玉氏がいわんとすることがわかる。「そう、それで高校はみんなとはちがう、離れたところにある学校に進学しました。イメージ一新ですね/笑」。

突然、目覚めた。「オレは医学部にいく」。

高校時代の児玉氏は、バイクに、バンドに、バイトに忙しい。もっともバイクといっても暴走するわけでもなく、バンドといっても、時々、ボーカルで歌っただけ。しかし、入学早々、かっこいい男子2位というランキングがつけられたほどのスタイルとルックス。ボーカルで歌うだけで、校舎から歓声が降ってきた。
バイトは、ファーストフード店で。「3年つづけ、3年生の時に店長が倒れられたので、かわって3ヵ月ですが店長の業務をしていました」。
高校3年といえば、まだ16〜17歳である。彼からすれば20代でも、おばさん。そんな子どもが、同年代はもちろん、20代以上のアルバイトやパートを動かす。
「いい勉強になりました。いま、思えばね。ただ、まさか飲食の道に進むなんて思ってもいなかった。人間ってわかんないですね/笑」。
「表向きは、高校を卒業してすぐ、梅の花となっている」と児玉氏。隠しているわけではなく、説明するのが面倒だから。で、今回は、その面倒をお願いした。
「高校自体は進学校だったんですが、ぜんぜん勉強もしていませんでした。高校を卒業してからも何をするわけでもなく、ただ、ぷらぷら。時々、ファーストフード店でバイトしたりして。ええ、お店からも『うちに就職しないか』と勧めていただきました。でも、その気にもなれない」。
もともと内向型なのだという。「プラモデルをつくったり、映画をみたり、1人でいるのが好きなタイプ」。そういう一面もあるのだそう。
それが1年つづき、2年目の春に突然、「医者になる」と思い立つ。福山の親元を離れ、下関の大好きな祖父の下へ向かい、相談する。
「国立の医学部です。とんでもないですよね。それまで勉強なんかしてこなかったわけですから。でも、祖父は、否定せず、逆に背中を押してくれました」。寮のある予備校に進む。それくらい追いこまないと追いつけないと思ったから。
「成績ですか。最初は偏差値も下のほうだったんですが、最終的には、高校時代にもやっていなかったから独学なんですが、生物が80以上で、トータルでいえば70には迫っていました」。
センター試験は9割、取れた。しかし、医学部。それで当然だ。「二次試験であがっちゃって。数学の試験なんか、どうだったのか記憶にもないんです/笑」。
第二志望の、工学部には合格した。しかし、本位ではなかった。それで、2年で大学を辞めた。

大阪へ。そして「梅の花」へ。

22歳。児玉氏は、人との縁もあり、大阪で暮らすようになる。「つまり、好きな女の子が大阪にいて、じゃぁ、オレもって/笑」。
ただ、好きなだけじゃなかった。
「彼女は専門学校をでて、もうはたらいていたんです。べつにやりたい仕事じゃない。そういうのをみて、仕事というものにはじめて頭と心でちゃんと向かい合いました」。
そして、ほんとうに人の縁があり、「梅の花」に入社する。「梅の花」については、創業者である「梅野重俊氏」にもインタビューさせていただいている。その話はコチラで。
「最初は、大阪市中央区の本町店で勤務します。2ヵ月の研修を受けて、2月に転職しましたから、その4月に西梅田店の立ち上げに参加しました。トレーナーという教育係です」。
児玉氏が、「梅の花」に入社したのは、1977年2月。「梅の花」西梅田店は、その4月にオープン。
「とにかく、出店に次ぐ出店の頃です。しかも、梅の花っていうのは大箱で、西梅田店も140席です。店名は西梅田ですが、駅はJR福島寄り。それでも、おかげ様で繁盛しました」。
ただ、店は繁盛したが、児玉氏本人は、モヤモヤした日々を過ごしていた。店長と折り合いがうまくつかない。翌年の1998年の夏、辞表を提出する。
「その時、現会長の梅野から電話がかかってきます。『すいません』と頭を下げると、梅野は『そこにいなくていい。オレのところに来い』っていうんです。ちょうど、『チャイナ梅の花』を立ち上げる時だったんです」。
ただ、児玉氏は、この時、梅野氏に「チャイナにはいかない。でも、ほかの店で、もう一度頑張らしてくれないか」と願い出る。会社の残るなら、梅野氏にとっても悪い話ではない。
「それで最初の本町店に異動します。この時、店長から『白黒ハッキリせんことのほうが多い。イエスか、ノーかで迫っていくと、息が詰まってしまうぞ』と教わります。でも、私もまだ若い。頭でわかってもね/笑」。
児玉氏がどう思っていたとしても、会社からはすでに高い評価を受けていた。入社して2年。つまり、リスタートして数ヵ月で、ある店の専任者に抜擢される。「立場は副店長でしたが、店長がいないため、実質、店長」だったそう。
もう一度、言っておくと「梅の花」は大箱である。利用者は裕福な年配者が多い。利用シーンは、晴れの日。そういう店だから、礼儀作法も大事になってくる。児玉氏自身も「ファーストフード店時代も店長のかわりをしていましたが、ぜんぜん違いますね」。「接客が、違う」という。
客単価がまったく異なるのだから、当然といえば当然だ。

ハレの日も、ケの日も咲く、梅の花。

28歳になり、児玉氏は営業課長に昇進する。異例の早さは、期待の表れだろう。「課長になってからは、不採算店をつぎつぎ立て直します」。
立て直す方法をうかがった。「まず、朝礼です。朝礼で、こうするぞと指し示す。次にミーティングです。これをちゃんとやる。そして、最後に評価です」。
たいてい数ヵ月、早い店なら1ヵ月で黒字に転換するそうだ。
「熱量」という言葉で児玉氏は思いの量を表現する。
「指導する我々の熱量が大事です。ただ、人には考えるちからもあるし、良心に手を当てて考えれば、正しい答えもみつかるはずです」。
「己の欲せざる所は人に施す勿れ」。「これは、すべての日本人に格納されている思いだ」と児玉氏はいう。この思いを呼び覚ますことが、指導する側の仕事だとも。
さて、2017年現在、株式会社梅の花サービス西日本は、「株式会社梅の花」が展開してきた飲食店を継承し、「湯葉と豆腐の店 梅の花」、「かに料理専門店 かにしげ」、「CHINA 梅の花」、「季節釜めし 花小梅」等の経営を行っている。
客層は、40代〜50代の女性が中心。この客層を20代〜30代に広げ、「客層の拡大も図っていきたい」という。また、ハレの日ではなく、ケの日、つまり日常のなかでの普段使いが、今後のポイントになるそうだ。
ともかく児玉氏は、いまトップとして事業を動かしている。そんな児玉氏には、ハレもケもないだろう。つまり、心休まる日がないということだ。
その日々の積み重ねがどんな未来を生むか。
「あっ晴れ」の一言は、まだ先に残しておくべきだろう。

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