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第383回 株式会社ピーターパン 代表取締役 横手和彦氏
update 13/08/13
株式会社ピーターパン
横手和彦氏
株式会社ピーターパン 代表取締役 横手和彦氏
生年月日 1943年7月10日
プロフィール 現在の呉市にあたる広島県の離島に生まれる。実家は、ミカン農家。愛媛の高校に進学し、島を離れる。大学卒業後、「愛媛信用金庫」に就職。24歳の時に、500万円を持って上京。27歳、青山に「レストランクラブ ぎんなん」をオープン。順調に業績をのばしていったが、ある時、店に連れてきた3歳の娘の一言で、新たな道を模索。ピーターパンに続く、物語りがそこから始まった。
主な業態 「ピーターパン」
企業HP http://www.peaterpan.com/

瀬戸内海に浮かぶ小さな島の話。

全国でも上位に上げられるほどの過疎地。人口1万人、現在は小・中学校ともに1つだけ。そういって横手は生まれ故郷について話しだす。
横手がその島に住んでいたのは、もう50年も前の話である。
「だんだん畑で、ミカンを作っていました。いまは広島県の呉市になっていますが、瀬戸内海に浮かぶ小さな島です。私は7人姉弟の末っ子で長男です。一番上とは18歳も離れていて、私が小学生になると姉が教壇に立って教えていました(笑)」。
家族も多かったが、本家でもある横手の家の暮らしは、不自由ではなかった。ところが、戦前、祖父が娘婿の保証人となり、状況が一変。すべての財産を投げ出しても、借財は「0」にならなかった。
「幸いというか、戦後、強烈なインフレが起こるんですね。インフレになると貨幣の価値が低くなります。あのおかげで、うちの借金も相対的に低くなり、ようやく返済できるようになるんです」。
これはむろん後から聞いた話。太平洋戦争の終戦は、横手が2歳の時、つまり1945年のことである。
ところで、高台のミカン畑から、青い空とおだやかな瀬戸内海を見下ろす。想像しただけで気持ちいい風景が広がるのだが、そこで暮らしている人にとっては、見慣れた田舎の生活シーンの一コマに過ぎないのだろう。
少年は山を駆け、海に潜りたくましくなり、そして高校進学と同時に島を離れた。愛媛県にある高校に通うためである。この時、はじめて独り暮らしも経験している。

大学卒業後、「愛媛信用金庫」に就職する。

進んだ高校は、進学校の一つだった。だが、親許を離れ、羽を伸ばし過ぎたのだろう。大学は1校しか受からなかった。「それで、1年間浪人する覚悟で受験するかどうか迷ったんですが、まぁ、1年経ても変わっていないような気がして。結局、浪人せずに受かった大学に進みました」。そして、卒業後、就職したのが「愛媛信用金庫」である。金融機関は「性に合っていない」とやがて退職するのだが、まさか、その時には「パン屋」の主人になるとは思いも寄らないことだったろう。

500万円持って、上京。

「末っ子でしたが上が全部女なんで、小さい頃から跡取りと言われて育ちました。『いるものも、いらないものもぜんぶ、おまえのもんになる』と。いるものと言ったら財産で、いらないものは負債というか、マイナスの財産ですよね。そういう風に言われていたもんですから、『どうせ、おれのもんになるのなら先にもらっておくか』と。それで、家から500万円(当時、大卒の初任給が4万円の時代である)を頂戴して、上京するわけです」。
「東京に出て一旗、あげる。そういう志ですが、田舎を逃げだしたかったというのも、本心です」。
24歳。上京して「バーテンダー」の見習いなどを始める。26歳、店に中学の同級生がひょっこり顔を出す。それがきっかけで結婚。結婚したことも勇気のひとつとなり、青山に「レストランクラブ ぎんなん」をオープンすることになる。
小さなクラブだったが、成功した。店は流行り、2年後には、自宅を新築するまでになる。29歳、子どももでき、公私ともに絶好調だったある日のことである。

娘の一言で、「水商売」からの転身を図る。

「ある日、妻が寝込んだんで、しかたなく娘を店に連れてきたんです。まだ2歳10ヵ月です。最初は、氷や灰皿を楽しげに運んでいたんですよ。私は、客と一緒にタバコを吸っていました。その翌日です。娘から『パパって、お仕事していないのね』って言われるんです。仕事はもちろんしていましたが(笑)、娘にどう見えたかが問題でした。私は、小さい頃、両親が汗水垂らして働いているのをみていました。だからこそ、まっとうに生きてこられたんだと思ったんです。今のままじゃ娘がどうなるかわからない。何しろ私の子どもですから(笑)。それで、です。水商売から足を洗おうと決意するんです」。
「ラーメン屋か、パン屋かで迷った末に、パン屋にしました。友人が作るパンが、とてもおいしかったからです。『ぎんなん』は人に任せ、私はパン職人になるために修業に出ました。『3年ぐらいはかかる』と言われていました」。

今でも頭があがらない人。

「ちょうど千葉に店を出す時です」と横手。偶然、神のような人に出会った。当時、横手が言う通り、千葉に店を出す計画だった。だが土壇場になって保証人が問題となり、融資が下りなくなったのである。金融機関が、「千葉在中でなければ保証人として認めない」と言ってきたからだ。
その時のことである。
「私の友人の知り合いの方が店に来て、『あの店はどうなった?』って聞いてくださるんですね。私は、躊躇しつつ事情を説明しました。すると『じゃぁ、ぼくがなってあげようか』って。嘘みたいな話です」。
額は違うといっても、祖父が保証人になったことで、財産がなくなってしまったことも聞いて知っている横手である。好意に甘えるわけにもいかなかった。「でも、その方も起業されたところだったんで、『キミの気持ちが良くわかるんだ』と」。
結局、甘えた。いまでも、頭が上がらない人の話である。「ピーターパン」のもう1人の生みの親といっても差し支えないだろう。ちなみに現在は100億円を超える年商の企業を経営されているそうだ。

「ピーターパン」の始まり。

34歳。パン職人の修業を終え、店を開店する。『2年は、がんばろう』と思っていたが、結局1年で店を出すことになった。未熟さをおぎなうものとして、食材はもちろん、常に焼きたて、揚げたてのパンを提供することを心掛けた。横手のいう「付加価値」の提供である。
それが「ピーターパン」の始まり。それからもう、35年が経つ。それでも横手はまだ第一線に立っている。むろんパン職人たちの技術は、もう天下一品である。
今も、店の前には客の列がたえまなく続く。「焼きたて」「揚げたて」は何より旨い。
今後の方向性も伺った。
「出店は積極的には考えてはいませんが、津田沼の奏の杜という再開発の地域があり、この奏の杜の街づくりの一環に、ぜひピーターパンも参加したいと思いました。この9月にオープンします。ビジョンとしては『100年企業、100店舗』と考えています。いまのところFCは考えていませんが、ホールディングスのようなかたちで、運命共同体のような組織をつくるのはありかもしれません」。
瀬戸内海の小さな島に生まれた少年の物語り。それは、祖父や父から引き継いだ物語りでもある。その少年の物語りは、これからだれかに引き継がれていくのだろう? 「ピーターパン」という会社に入社した若者たちが、物語りをさらに未来へとつむいでくれたらと願わずにはいられない。

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