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第508回 株式会社AJドリームクリエイト 代表取締役 蓮川昌実氏
update 15/11/17
株式会社AJドリームクリエイト
蓮川昌実氏
株式会社AJドリームクリエイト 代表取締役 蓮川昌実氏
生年月日 1973年10月8日
プロフィール 愛知県日進市生まれ。関東学院卒。幼少の頃から飲食業を志す。大学卒業後は飲食チェーン店に就職するも、半年で実家立て直しのため退職。立て直し成功後、再び食品メーカーに就職。1年後に独立し、紆余曲折を経て、コンセプトを明確化した「専門店」に特化。現在では直営12店舗、FC30店舗、プロデュース3店舗を展開中。
主な業態 「ニクバルダカラ」「味噌とんちゃん屋」「牛ざんまい」「伏見屋」
企業HP http://www.aj-dream.com/
ぴょんぴょんと蛙が、店内ではねる。隣の田圃からの、ちん入者だ。掘立小屋と言えば失礼だが、話を聞いていると、頭のなかのイメージはそうなる。突然、田圃のなかにオープンした1軒の「ホルモン店」。この店が、株式会社AJドリームクリエイトの未来をつくる起爆剤となった。この店がオープンしたのは2004年のこと。創業5年目のことだった。

小さな頃から「飲食」を志した少年。

蓮川氏が生まれたのは、1973年。出身は、愛知県日進市である。蓮川氏の父親が30歳の時にこの市に「焼鳥居酒屋」をオープンする。
「もともと母方の祖母が焼肉やホルモンの店をやっていたこともあったんでしょうね。それに感化されたのか、30歳の時に父が脱サラして焼鳥居酒屋をオープンするんです。それまでは、トヨタ系列のディラーで勤務していたそうです」。
「オープン当時から繁盛していたそうです。私も小さな頃から店に行き、小学校の頃には手伝いもしていました。この頃から、将来は『飲食』と思っていました」。
「親がたのしく働いているのをみて」「ものづくりにも興味があって」「直接、お客様に喜ばれる仕事だから」。
「どうして、飲食を好きになられたんでしょう?」と質問すると、蓮川氏は、飲食に惹かれた理由を前述通り3つ挙げた。いずれも純粋な動機である。観察眼もまた鋭い少年だったに違いない。
ともあれ、小さな頃から飲食に馴染み、店に溢れる笑顔に惹かれた少年は、大人になっても「志」を忘れず飲食への道をあゆむことになる。

個人経営ではなく、組織にして。少年の希望は広がる。

「飲食という事業に惹かれる一方で、たいへんさも、もちろんわかっていました。夏休みもありませんしね(笑)」。
蓮川氏自身、夏休みになっても、どこにも連れて行ってもらったことがないから、その点がクローズアップされる。
「それで、考えたのが企業化です。父親も、祖母も個人店だったんで、それはそれで楽しいんでしょうが、自由がきくようで、きかない。だから、私は、そうじゃなくって、ちゃんと休みも取れるように企業化すればいいと思ったんです。それで、大学を出て、名古屋市内の居酒屋チェーンに就職しました。チェーン店なら企業としてもしっかりしている。そのノウハウも盗めると思って…」。
話は就職時までいっきに飛ぶ。

有名なチェーン店に就職。しかし、半年でリタイア。家業の立て直しに奔走する。

就職したのは、名古屋でも有名なチェーン店舗。名証2部上場の企業でもあった。ところが、およそ半年で退職してしまう。
「半年と言っても、 がむしゃらにやっていたのでかなり勉強もできましたし、当時、うちの店の調子が悪かったものですから、立て直しに向かいました」。
当時、蓮川氏の実家の焼鳥居酒屋は、低迷を余儀なくされていた。バブルが弾けたとたん、600万円だった月商が半分程度に落ち込んでしまったそうだ。
「バブルの時は良かったんです。どんな店でも、繁盛しましたから。でも、バブルが弾け、選別の時代が始まった」。
客が減ったのは、バブルが崩壊したせいばかりじゃない。理由も、薄々わかっていた。
BGMは、昔通りの演歌。マグロは、近所のスーパー購入した代物。それでいて「焼きなす」600円。たしかに、高いし、こういってはなんだが、素人にも低迷の理由がわかる。
蓮川氏はそれらを次々見直していく。
「いちおう、仕入れも勉強していましたので、市場まで行って新鮮な魚を買い付けてきました。料理にもこだわると、お客様も元通り増え、雰囲気もいっぺん。元の600万円の月商にもどるにもそう時間がかかりませんでした」。

黒ずんだマグロをみて、流通のしくみを知ろうと決意する。

実家を見事立て直した蓮川氏は、ふたたび修業にでる。
「マグロって置いておいたら、当たり前ですが酸化してすぐに黒ずむでしょ。じゃぁ、どうやって食卓まで新鮮な状態で来るんだろうって、ある時、マグロをみてそう思ったんです。それで、将来の起業する時のために流通のことは知っておいたほうがいいだろうと、東京のある食品会社に就職するんです。23歳くらいの時でした」。
それを知って入社したわけではなさそうだが、その食品会社は、「ワタミ」など有名な居酒屋チェーン店に食材を卸したり、メニューの提案も行っていたりしたそうだ。
「おかげで、流通のしくみはもちろんですが、原価も、原価に対する大手チェーン店の値付けも知ることができました」。
食品会社。マグロをみて、思い付いた疑問は、いい選択を生んだ。飲食店のなかにいてはなかなか見えないしくみをみることができたからだ。
ちなみに蓮川氏は、ワタミの創業者、渡辺氏に感化されている。
渡辺氏について書かれた「青年社長」(高杉 良:著)を読んで、蓮川氏もまた夢に日付を付けた。起業の二文字を記した、その年齢は25歳。
「けっきょく、私は、この食品会社も1年で退職。25歳がもう目前だったものですから、とにかく急いでいたんです」。短期間に、様々なノウハウを吸収し、もう一度、実家に舞い戻った。
「実験ではないですが、マーケティングというのも勉強したんで、それを採り入れてみたんです。すると2割アップした。それで、『よし』と思って、親父に相談し、のれん分けということで銀行にも融資してもらって、新栄に念願の店をオープンしました。初期投資、3000万円。いまだったら、絶対、やんないですけどね(笑)」。

起業。順調なスタート。しかし、「将来、なにをめざすのか」と詰め寄られる。

仲間は4名。辻調出身のシェフと僕のビジョンに意気投合した2名。シェフは昔の友人で、残り2名は、元気だけが取り柄の青年だった。
路地裏だったこともあって、当初は苦戦もしたが、それでもやがて採算に乗るようにもなった。2店舗、3店舗と、新たな出店もどうにか果たした。
「でも、3店舗目くらいからです。ポツポツと退職する者も出てくるようになりました。いままで、そういうことがなかったもんですから、何故だろうって…。その時、3つの店にまるで統一感がないことに気づくんです。什器はもちろん調理器具まで違いました」。
「違うのは、当然といえば当然なんです。私がつくりたいと思う店を、自由につくってきたからです。それが、結果、バラバラなコンセプトとなり、統一感をなくした原因です。『いまなら、こうだ』って、時代のお尻を追いかけ回していたのかもしれません。スタッフたちが、不安に思ったのは、そんな私の姿だったんです。『将来、なにをめざすのか』と問われたこともありました」。
経営理念もない。ビジョンもない。ひょっとすればあったはずの「きずな」も、なくなっていたのかもしれなない。そんな時、1軒の店の階下のフロアに「牛角」がやってきた。

階下のフロアに、「牛角」がやってきた。

「専門店に舵を切ったのは、牛角さんの人気ぶりを目の当たりにしたからです。当時は、特に凄い人気でしたでしょ。毎日、行列ができるんです」。
下のフロアにオープンしたのは、「牛角」の名古屋1号店だった。
「しかし、平日は良くても、日曜日はだめだろうって思っていたんです。なぜなら、日曜日は、うちの店も毎週ガラガラだったからです。ところが、日曜日になると、平日より列がのびるんです」。
これには「たまげた」そうだ。
「うちの店もスタイリッシュで、格好良かったんです。でも、牛角の繁盛ぶりをみて、何屋かわからないことが、ハッキリとわかったんです。ダイニング? バー? ヤキトリ?」。
何でもあることが自由で、楽しいと思って「居酒屋」という業態にこだわってきた。しかし、何でもあるはずの店にないものが、あった。「山ちゃんでいえば、幻の手羽先というのがあるじゃないですか、うちには、そういうのがない。むろん、牛角のような主張もない。その時、浮かんだのが祖母のお店だったんです」。
実をいうと、蓮川氏。なんども祖母の店で、ごはんを食べていたが、焼肉屋は肉を切るだけ、と思っていた。だから、それだけの店にはしたくないと思って、居酒屋に走った経緯がある。
しかし、牛角をみて、改めてブランドのちからを知った。「専門店」。ひとつのものに特化すること。それに挑戦してみようと思った。めざすことも、明確になった。「うちにしかできない料理とサービスづくりです」。
余談となるが、ホルモンの仕入れは難しいそうだ。お金をだしても、新鮮なホルモンは手に入らない。そこに目をつけた。
「祖母が長年、焼肉をやっていましたし、叔父が精肉店をやっていましたので、そのつながりで、新鮮なホルモンを仕入れることができたんです。お金を積んでも、手に入らない鮮度の高いホルモンですから、これが武器になると考えたんです」。

夢を追いかけ、手づくりの「ホルモン店」で勝負にでる。

店のつくり方も、今までとは180度、違った。
「ちょうど、2年だけ好きにつかってもいいよって、場所があって。それでスタッフを総動員して、突貫工事で店をつくったんです」。2年限定。さすがに投資ができる範囲も限られる。しかし、3000万円かけ店をつくった時が、うそのような金額で店ができた。
ボロボロだし、ビニールカーテンだし、田舎だし、周りは田圃だし。いままでの蓮川氏なら見向きもしなかった店だろう。しかし、冒頭にも書いたように、蛙もやってくるこの店が爆発的にヒットし、起爆剤ともなる。
狙い通りといえば、そうだが、想像以上だったのも、事実だろう。
10台ある駐車場はつねに満杯。止められない車が路上に溢れ、警察から何度も注意をうけた。それでも、280円均一の、最高に新鮮なホルモンを食べるために、客は遠くから訪れ、店の前で列をつくってくれた。
 「レジにいるとよくわかるんですが、お客様が、心から満足されているんです。『造りはボロボロだけれど、この店は、旨い。この店に来てよかった』。それが表情に表れているんです」。
「この店」がキーワードである。何でもあるから楽しい。それも、一つの来店動機には違いない。しかし、「この店」にしかないもの。それが来店の動機となった店はつよい。「いままでにない経験だった」と、蓮川氏も語っている。

専門化構想がスタート。焼肉屋の孫が、肉の奥深さをはじめて知る。

かくして、蓮川氏の専門化構想がスタートする。
「焼肉屋は、肉を切るだけ、と思っていましたが、奥が深いことも知りました」。話題のホルモン店のつぎには、焼肉店、そして肉バルとブランドも広がった。
「当時、名古屋に、ホルモン店はほとんどなかったんです。でも、うちの店の繁盛ぶりをみて、うちも、うちもとホルモン店だらけになりました(笑)」。しかし、動揺しなかったそうだ。
新鮮なホルモンが手に入らないことを知っていたからだ。案の定、しばらくすれば、次々できたホルモン店はうそのようになくなっていった。これも、また、蓮川氏を専門特化という方向に走らせたのではないか。
「カルビといっても、上カルビとふつうのカルビだけじゃないんですね。部位によって味も違う。だから、更に細かく部位を表記してもおもしろいんじゃないか、とそういう店もスタートしました」。
肉に対するこだわりも強くなった。名古屋では唯一となる「前沢牛専門店」も出店した。最近では「ニクバルダカラ」を積極展開し、初の東京進出となる大崎店もオープンし、こちらも繁盛している。
しかし、蓮川氏がこの数年で、手に入れたものは、かたちあるものだけではない。
明確なビジョンも手にした。
「名古屋に『味噌とんちゃん』というのがあるんですが、その『味噌とんちゃん』を新たなブランドとして日本中に発信し、新たな食文化をつくっていきたいと思っています」。
このビジョンの下、仲間であるスタッフとの「絆」もふたたび強くなったはずである。
 ちなみに、「味噌とんちゃん」は、蓮川氏も祖母の店で何度も食べた名古屋名物である。
最後に今後の展開も伺ったので記しておきたい。
「肉に特化した企業としての強みを最大限に発揮していきたいと思っています。ハンバーグやステーキ等まだ展開していない業態も少なからずある。肉の販売からレストランまで手掛ける肉の総合商社を目指していく。それが、これからのビジョンです」。
将来性ある企業になった。いうまでもなく、蓮川氏が経営する店にしか、ないものがあるからだ。
いまの事業のキャッチフレーズは「幸せをつなぐ、明日への食づくり」。
この言葉が生まれた背景にあるのは、蛙もやってくる「ホルモン店」で出会った、お客様1人1人の笑顔、そんな気がする。そういう意味では、お客様の笑顔こそ、真の起爆剤だったと言えるのではないだろうか。

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