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第595回 株式会社マックスフーズジャパン 代表取締役社長 西田 眞氏
update 17/06/20
株式会社マックスフーズジャパン
西田 眞氏
株式会社マックスフーズジャパン 代表取締役社長 西田 眞氏
生年月日 1947年6月17日
プロフィール 日本大学中退。起業を志し、大学を中退。1968年にJR「目黒駅」前に5坪の<もつ焼き「やきとん まこちゃん」>を開業。以来、ビジネスを拡大し、現在は、外食事業部を軸に農水産物の輸出入、各種鮮魚業務用の卸、量販店向け惣菜開発を手がけている。
主な業態 「やきとん まこちゃん」
企業HP http://macksfoodsjapan.com/

東京へ。

小学4年生の時に東京に引っ越した。それまでは佐賀県の多久にいた。「本籍は麻布十番です。でも、いろいろあって」。西田氏が生まれたのは1947年。戦後から2年経った時である。父親と母親は、中国から引揚船に紛れ込み帰国したそうだ。
「母は和歌山生まれなんですが、中国人なんです。だから、一時、中国に強制送還されていました。向こうで北京音楽大学を卒業して父と知り合います。祖父が商社を経営していまして、父が上海に赴任していた頃に知り合ったそうです」。
敗戦国の日本。2人だけではないが、たいていの人にとって、住みやすい国ではなかったはずだ。
「私たち家族は佐賀県の炭鉱の町で暮らし始めました。父が炭鉱ではたらきだしたんです。しかし、もともとちから仕事などしたことがない人でしたから1日はたらけば3日休むといった具合で、生活はけっして楽ではありませんでした。それで母が上京し、仕事を始めるんです」。
母親が就いた仕事は、歌手。TVに何度も出演された有名な方だそうだ。なんでもNHKの中国語の講師をされていたこともあるらしい。母のおかげで生活は安定したが、両親の間にはいつしか溝ができ、2人は別れることになる。
「母はとにかく忙しそうでしたね。当時はTVに出るより、地方巡業です。私も、弟だと偽って、いっしょに巡業したこともあるんです」。
なんでも結婚していることを黙っておられたそうだ。だから、弟。
「当時は、結婚していると言えない空気だったんです」と西田氏。ともかく、そうやって西田氏の東京生活がスタートする。
「勉強はできたほう」と西田氏。なかでも英語は得意で、中学校ではテストで98点以下を取ったことがないそうだ。高校は明治学院。英語、一つで突破した。
「私はそれから日大に進みます。スポーツはいろいろやっていまして。小学校では水泳、中学になってボクシングや剣道。剣道では2段を取って、高校では硬式野球。佐賀にいた時からわんぱく坊主で、ガキ大将です。体育会だったんですね。昔から(笑)」。
体育と英語。得意教科には、その2つが挙がる。「昔は中国語もできました。そうです。母から教わりました。兄弟は2人で、弟がいます」。
忙しい母に代わって、面倒をみてくれたのは、ばあやさんだ。明治生まれの彼女の躾は、容赦なかった。ただ、そのおかげで、西田氏の心の背骨はまっすぐに育った。

大学中退。飲食の道へ。

起業しようと思ったのはいつ頃ですか? という質問に西田氏は「高校の時からかな」と答えている。それでも母に懇願され、大学だけはと日大に進んだ。しかし、大学2年時に退学してしまう。
「私は中国人と日本人のハーフなんです」。卒業したら就職させてあげる、と超大手商社の名を挙げる知人もいた。「だけどハーフでしょ。うまくいっても課長止まり。それじゃハリがない。だから起業という道を選択したんです。飲食で独立したのは、アルバイト経験もあったからです。しかし、何の店をするかは、決めていませんでした」。
友人にフランスレストランを経営するオーナーシェフの二代目がいた。「彼にお願いして、お父さんに合わせてもらって、アドバイスをもらったんです。すると『フレンチも、和食も、20年、25年とかかる』というんですね。そんな悠長なことはできないということで、じゃぁ『もつ』はどうだということになったんです」。
当時、もつ料理店はけっして多くない。その少ないなかから、西田氏は新橋にある「もつ料理店」を選び、修業を開始する。
修業期間は1年半。ただし、ふつうの3年、5年に匹敵する濃厚さだった。

21歳で、起業。目黒、新橋に出店する。

いまや新橋といえばサラリーマンの聖地である。西田氏の事業基盤の街でもある。しかし、西田氏が、起業した当時の新橋はまだまだひらけていなかった。ちなみに、西田氏らの時代は、大学紛争の時代なのだという。学生たちのうねりが、東京という街を覆っていた時代でもある。
「1年半、修業して1号店を目黒に出したのは、私が21歳の時です。11月10日。5坪の、カウンター6席と小さなテーブル席2つの店です。メイン料理はいうまでもなく、もつ料理です」。
修業させてもらった店の味にアレンジを加えた。素材は、朝早く自ら市場に出向き、買い付けた鮮度抜群の「もつ」である。
朝早く市場に買い付けにいって仕込みをして、時には明け方まで仕事をするのが、西田氏のスタイルだった。しかし、半年あまり、意気込みは空回りするばかりだった。
「今みたいに、サイトもありませんし、広告なんて発想もない。オープンする時には、友人たちを計算に入れていたんですが、奴らは金を払わない(笑)。ま、いないよりましかと思っていたんですが、いつまでも、そういうわけにはいきません」。
20歳で大学を中退し、1年半修業してからだから、まだ21歳である。不動産屋にも、最初は相手にしてもらえなかったそうだ。日参し、ようやく手に入れ、オープンした店である。しかし、客が来ない。
「だいたい半年くらいでしょうか。ぜんぜん客が来ない。来ても友人ばかりです。でも、焦ってもどうにもならない」。1人、2人と客が来るようになったのは、半年くらいから。
「そうですね。徐々に、徐々にお客様が増え、1年も経った頃には、おかげ様で繁盛店になっていました」。すぐに結果を求めたがる今とは大違いだ。そういう時代でもあったのだろう。
ともかく、繁盛しだすと、それまでとはうってかわって、給料は大卒のサラリーマンの給料をはるかに超えた。
「まだ若かったですからね。ずいぶん無駄遣いもしました。ま、無駄遣いも経験です」。
やがて西田氏は、2号店を「新橋」に出す。現在は、こちらが本店という位置づけだ。しかし、こちらも1年間は、客がつかなかったそうである。むろん、いったん評判になると、客は次々、押し寄せた。「最初は10坪だったんですが、隣に空きができて、『そちらも借りてもらえないか』というオファーがあり、合計20坪になりました」。
不動産屋にもまるで相手にしてもらえなかった1号店の時とは大違いである。
これが「実績」というものの、ちからなのだろう。

人材は、人財。焦らず、徐々に、徐々に。

飲食事業で、足下を固めた西田氏は、貿易事業にも乗り出し、バンクーバーと日本を行き来するようになる。英語は昔からお手の物だ。
「バンクーバーと日本を行き来して、もう35年になる」と西田氏は感慨深げに呟く。もっとも70歳になった今でも、年に2〜3回は、バンクーバーを訪れるそうだ。
「私が店から離れて、海外で仕事をできたのは、スタッフたちに恵まれたからにほかなりません。やはり、ジンザイのザイは、財産の『財』なんだと思います」。
現在、西田氏は、外食事業から、食品の輸出入まで手広く手がけている。とはいえ、事業のコアは、新橋を中心に6店舗を展開する「新橋やきとんまこちゃん」だ。
グルメサイトで検索してみると、かなり高い点数がつけられている。サラリーマン&のんべぇの聖地にふさわしい店づくりである。店自体が、時代に流されず、じっくり育ってきた証だろう。
すでに述べた通り、2017年現在、西田氏は70歳になるが、まだまだ若い。「人生を振り返って」という質問をするのも、まだまだ早そうだ。
もっとも20歳の起業から数え半世紀。順風満帆の時だけではなかった。「億単位の金を騙されたこともある」と痛快に笑う。しかし、西田氏が育ててきた事業は、たしかに東京の真ん中で息づいている。
「専務をやっている息子にも言っているんです。焦らなくていい。徐々に。徐々に。それで、いいんだと」。
事業の話なのだろうが、観方を替えれば「人は、そんなにすぐに育たない」ということなのだろう。
「焦らなくていい。徐々に。徐々に」。
これは飲食を志す人だけではなく、すべての人に対するメッセージなのかもしれない。

思い出のアルバム
 

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