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第624回 とんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部武久氏
update 18/01/23
とんきゅう株式会社
矢田部武久氏
とんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部武久氏
生年月日 1948年12月16日
プロフィール 茨城県下妻市に生まれる。日本大学、商学部卒。卒業後、いったん実家の「あんこや」を継ぐため、修業を開始するが、2年して、飛び出し、のちに商社を起業するなどしたが、借金を背負い、ふたたび実家に。同時に借金返済のため、とんかつ店「とんQ」をオープン。波乱の飲食人生の幕が上がる。
主な業態 「とんQ」「赤牛」「アルゾーニ・イタリア」「Gastro Kitchen JUNBOO」
企業HP http://ton-kyu.com/

あんこやのセガレ。

「横浜港から船でハバロスクに向かって、そこからシベリア鉄道に乗って、そうやって昔はヨーロッパの山を登りに行ったんだ。手をふりながら、『あぁ、オレも行きてぇなぁ』って」。
ヨーロッパの山に向かうともだちを見送った時のことはいまも鮮明に記憶している。
小学1年生の時。ボーイスカウトの仲間と山に登ったのが、山好きになったきっかけ。日本大学の商学部に進んでからはワンダーフォーゲル部に入り、次々と山を制覇した。その数は、もうすぐ100に達するという。
「いまで97。あと3つだね」。
山登り同様、アップダウンだった人生を、これからも楽しむように、まだ矢田部氏は前を向いている。
矢田部氏は、1948年、茨城県下妻市に生まれる。下妻市は内陸にあり、昔は人口も少ない都市だった。矢田部氏の実家は、この下妻市で、「あんこや」を経営されていた。
「姉弟は4人いたんですが、男は私だけです。父親は20歳の時に単身中国に渡り、ビジネスを起こしたりしたそうです。そういうことも含め、私は小さい頃から父親を尊敬して育ちます」。
「いずれ父親の店を継ぐもの」と思っていた。事実、小学6年から高校3年まで、「学校の時間以外は、あんこやの手伝いをさせられていた」と語っている。準備は、整っていたわけだ。
「大学を卒業したら店を継ぐ、というのが親父との約束で、既定路線です。でもね。ともだちを横浜で見送ったり、ワンダーフォーゲル部でいっしょだった仲間が、商社に入ったりしてね。なんだか、オレの人生それでいいのかなって。もちろん、一度はもどりました。朝4時に起きて、あんこをつくっていました。これが、あんこやのセガレの人生なんだとジブンに言い聞かせて」。

現実からの逃避行。

「合計、2年間くらいです。父親を尊敬しているでしょ。親の面倒もみなくちゃいけない。それでも朝4時から、夕方まで、黙々と仕事をつづけるわけです。食べていくには、困らない。でも、それでいいのかって」。
悩みに悩みまくった末、矢田部は、そっと家を出る。そうするしかなかった。
「現実から逃げ出したんです。でも、もうそれしかなかった。両親には申し訳ないって。何度も頭を下げながらです。でも、あれがすべてのスタートですね。私の、ホントの人生の」。
アメリカに渡るために、トラックに乗った。3ヵ月で80万円を貯蓄する。コーヒーの原液をはこぶ、重労働だったそうだ。
ところで、山登りの一方で、矢田部氏は、旅も好きだ。あんこやで勤務している時も、3ヵ月の休みをもらって念願のヨーロッパに出かけている。のちには、インドのカルカッタからドイツのフランクフルトまで、9ヵ月かけ1人でオートバイの旅をしている。
奥様は、イギリス人。こちらは東京で出会われたそうだ。奥様との出会いは、矢田部氏にとって、大きな人生の転機ともなった。その話は、のちにする。

とんかつ店「とんQ」オープン。

「25歳で運転手やったあと、会社を立ち上げました。商社です。仲間と2人で。それで実は、3000万円の借金をつくっちゃうんです」。
当時、付き合っていた奥様のビザも、もう更新できないまでになっていた。「それで籍を入れて親父に頭を下げて、2人ではたらかせてもらうんです。これが私の転機ともなりました」。
最初は反対されていたんだろうか。一時は、奥様を東京のアパートに残したまま、矢田部氏1人、実家にもどり、父親が経営する「あんこや」に通い、仕事をしていたそうだ。そして、奥様が店に入られるようになると、夫婦2人の、あんこづくりが始まった。その姿をみて、ご両親も結婚を許された。
「とにかく、この時、3000万円も借金があったわけで。だから、『なんとかしなくっちゃ』と思って。それで『とんかつ』の店をオープンします。当時、つくばも、まだまだ小さな町でした。しかし、筑波大学ができ、デパートができ、日本でも屈指の都市になるのがわかっていたから、そこに賭けてみようと」。
ただ、「あんこ」はつくったことがあるが、「とんかつ」はない。知り合いに紹介してもらった横浜の名店で修業する。たった3ヵ月だが、人生を賭けた修業である。血肉もなった。
ただ、矢田部氏は、面白いことを言っている。
「ふつう料理がうまい人は、安い素材からでも旨い料理をつくるでしょ。でも、私はそれができないから、素材でカバーしたんです」。
いまも「とんかつとんQ」は、日本のトップブランドである、農林水産大臣賞を受賞した国産ブランド『やまと豚』を使用している。
ともかく、33歳の時、矢田部氏は「とんかつとんQ」をオープンする。夫婦2人。オープン初日からイギリス人のおかみさんが、お客様を魅了する。

借金3000万円。「とんQ」は、救いの神になるか。悪あがきになるか。

「妻のおかげで、ロケットスタートです。イギリス人のおかみさんがいる。子どもが生まれたばっかりだから、背中には子どもを背負っている。評判になって、新聞にも掲載されたし、それでまた評判になって」。
とはいえ3000万円の借金は残ったままだ。
「ケンカはしょっちゅうですね。お金も、休みもない。1日13時間、はたらきました。それでも給料5万円。『3年だけ我慢してくれ。そうしたら、きっといい暮らしをさせるからって』って。結局、5年かかってしまいましたが」。
「奥様には頭があがらなかった」と矢田部氏。「イギリス人の旦那さんって、5時には家に帰るそうです。でも、そんなことぜんぜんしないわけで。国際結婚って、案外、こういうのが難しいんでしょうね」。
ともかく、奥様と2人。はたらきつづけた結果、3年後には新たな店をオープンするに至り、さらには3店舗目も出店する。
借金も返済したが、「それが、私の一つの限界でした」と矢田部氏は語る。
「ぜんぜんわかんないんですよね。店長育成といっても、やったこともない。それどころか、それまで、休むこともなくやってきたでしょ。ちょっと休憩しようと思っちゃったんです」。
休憩は、7年間に亘った。それまで、上向いていた業績は下降する。なぜかわからない。「店長をあつめて、『なんでなんだ?』って。もちろん、だれも何も言わない。5年間、下がりつづけました」。
いったん空転すると、なかなかギアはもとにもどせない。矢田部氏は、家も買い、新車も買う。長期の休みを取り、旅行にも行った。それ自体はけっして責められることではないだろう。しかし、いったん空転した流れを止めるすべを知らなかった。
「あの時、もし、コンサルタントの先生に出会わなかったら」と矢田部氏。もともとコンサルなんて、信じていなかった。しかし、「当時は藁にもすがる思いだった」と、告白する。
藁は、太い綱だった。
「先生の講演をお聞きし、最初から心をわしづかみにされました。先生は、『はたらいている人を感動させるんだ』って。『そうだよ。そうなんだ』と思って、名刺をもらって、翌週、水道橋にあったオフィスに押しかけます」。
そこで、矢田部氏がこれでもか、と頭を叩かれる。
「先生の話を聞き、『この人なら』と。こっちはとにかく焦っているわけです。はやく結果をださないといけない。毎月、赤字にもなって、もうあとがない。だから、『3店舗のうち、2店舗をクローズする』『スタッフもリストラする』『メニューも刷新する』という計画を立て、そうするには、『どうすればいいか』と伺ったんです」。
まったく意に反した回答だった。「先生は、『13年を振り返り、反省しましょう』っていうんです。そして、『店を回りなさい』と。こっちは早く結果が欲しいのに、先生は悠長なことを言うんです。でも、言う通りにすると」。 「いろいろみえてきたんですね?」
「そうなんです。いままでは店長をあつめて、怒っていただけ。実際に店を回ると、問題点がはっきり浮かび上がってきました。でも、先生はそれだけじゃない、と。業績が悪化したのは、だれのせいでもない。悪いのは、あなたなんだ。『みんなに、頭を下げなさい』って」。
最初は、頭を下げて好転するくらいなら、いくらでも下げる。それくらいの思いだったかもしれない。しかし、頭を下げているうちに、いままでわからなかったスタッフの思いが、自然と心に流れ込んできた。いつしか、「オレが悪かった」と、深く頭を下げていた。

「歓喜・感動カンパニー」。

「先生がおっしゃる通りでした。私は、『業績がプラスになるまで、昔同様、休みも返上する』と、宣言しました。もちろん、全員の前で、頭も下げました。すべては、私の責任だったとわかったからです。そして、いいました。『もう一度、オレにチャンスをくれないか』って。真剣に」。
業績が上向くまでの間、約束通り、休みなくはたらいた。「みんなオレをみていたんだ」「業績は、オレを映す鏡だったんだ」。だから「挫折したら、終わり」とふんばった。そんな矢田部氏の姿が、やがてスタッフの心を揺り動かす。
「不思議なもので、メニューもなにも変更していないのに、3ヵ月で、5年ぶりに業績が上向きます。たった4%でしたが」。それが、もう一度、すべての始まりとなる。空転していた何もかもが、ギアをもう一度、かみ合わせたように動きだす。やがて、8%、10%、ついには15〜18%をクリア。スーパーバイザーが、「社長もう反転したんだから、休んでください」という。それでも、休まず走りつづけた。今度は、だれのためでもない。みんなのために。
「とんかつやをやる時もそうですが、私はいざとなったらちからがでるんです。旅を通して、身に付けたへんな自信かもしれないんですが」。
そうなのかもしれない。しかし、それだけではない気もする。あんこやのセガレの選択は、ともだちを見送っていただけのあの頃とはちがう。自らも船に乗り、クルーたちも、いっしょにいる。そう、山にたとえるなら、仲間たちと、パーティを組んで、頂きをめざす。それは、自身のためだけではなく、ともに戦うすべての仲間のため、そして、お客様のため。ホームページを開けば、こんな言葉が目に飛び込んでくる。
「歓喜・感動カンパニー」。
矢田部氏がたどり着いた経営の極意かもしれない。

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