株式会社サブコン 代表取締役 野田洋行氏 | |
生年月日 | 1980年1月1日 |
プロフィール | 高校卒業後、フリーター生活を送り、23歳でリンクワンに入社。プロ店長として店舗の立て直しをはかり、キャリアを積む。当時の事業部長に誘われ、ともに独立。株式会社PrunZを起業し、取締役に就任する。在任期間は12年。38歳で独立。人気のやきとん酒場「ヤマネ肉店」を出店する外食事業のほか、経営サポート事業、また、2023年9月には第3の柱としてゴルフ事業も開始している。 |
主な業態 | 「ヤマネ肉店」 |
企業HP | https://subcon2018.com/ |
小学校は野球、中学校はバレー、そして、高校はアルバイト。これが、経歴。「高校2年生からマクドナルでアルバイトを始めます。飲食が好きになるきっかけは、この時のアルバイトです」。
今回、ご登場いただいた野田さんは1980年生まれ。台東区谷中出身。お父様も飲食店を経営されていたそうだ。2人兄弟の長男。
「高校時代は獣医志望だったんです。もちろん、動物が好きだったからですが、漫画の影響もあって。でも、そもそも勉強ギライです。その結果、大学受験もうまくいかず、あと1年、頑張るかと思っていたんですが。父親の飲食店を手伝っているうちにフリーターになって、獣医への思いもなくなります」。
代わりにもともと好きだった飲食への思いがつよくなる。
「飲食の道を進むことになったのは、父親の影響が大きいです。勉強ギライで、人に使われるのもイヤ。だったら、もう飲食しかないというのもあったんですが(笑)。23歳で、リンクワンに入社します。 求人誌にデカデカと広告が載ってたんです。たしか『半年で店長』みたいなキャッチフレーズだった気がします。リンク・ワンが上場する1年前くらいですので、もっともいきおいがあった頃です」。
野田さんはリンク・ワンに入社し、本格的に飲食業界にデビューすることになる。
「銀のさら」からスタート。「仙台にも駆り出され、ポスティングもした」と笑う。それから数ヵ月後、野田さんは三重県にいた。「三重県にある『とりあえず吾平』の業績改善がミッションでした」。
リンク・ワンのスタッフでもある野田さんは、プロ店長。プロの店長として、業績のV字回復をミッションにして派遣される。
「いちばんきつかったし、いちばん勉強になったのが、この『とりあえず五平』かもしれません」。
話を聞くとたしかにきつい。
「三重に行ったのは、12月の前半です。かき入れどきです」。
50坪で、90席。月商700万円。
「赤字が毎月200万円でている店でした。社員は3人いましたが、私がプロ店長として投入されたもんですから、そのぶん、ほかの社員の人件費がでない。プロ店長なんだから1人で十分だろう、と(笑)」。
3人いても赤字だったにもかかわらず、それを1人で黒字にする。もしできたら、人間業じゃない。
「でも、業績を回復するのがミッションだから、できないでは済まされません」。
周りに、気心が知れたスタッフもいない。
「やる気もないアルバイトばかりです。売上が悪いとこうなるという見本のような店でした。スタッフからは、最初から総スカンです」。
フォローしてくれる人もいない。
「初めてのお正月は忘れられないですね。1月1日。だれも仕込みのシフトに入っていない。でも、店を開けないわけにはいきませんから、仕込みを1人でやって、お店を開けて。もう、むちゃくちゃです(笑)」。
当時のスタッフの様子を野田さんは、つぎのように語っている。
「だいたいシフトを守らない。すすんで掃除するやつもいない。そもそも、お客様に興味がない。そりゃ、だめです。でも、彼らの気持ちもわからなくもない。だって、ほぼ同い年ですから」。
まだ、23歳。スタッフたちとはたしかに同年代。
「最初は、何だあの気合が入った奴は?って感じだったんじゃないですか。私が逆だったら、たぶん、そう思います。でも、文句も言わず1人で頑張っている。休んだのを、みたことがない。ちょっとほっとけないって感じになったんじゃないでしょうか。少しずつ心を開いてくれる子が現れます」。
実際、人間ゲンキンなもので、売上が上がり、活気が出てくると仕事も楽しくなる。野田さん曰く、お客様への感謝の気持ちが生まれる。プラスの連鎖。
「半年はかかりましたが、半年後の月商は1200万円をオーバー。余裕で黒字転換です」。「なかなかやるじゃないか!」。野田さんを称賛し、慕うスタッフも現れる。
「そうなると、あとは自走できる組織をつくるだけです。アルバイトの子を社員にして、それでお役御免。だいたい1年はいました。リンク・ワンにいたのは3年ですから、1/3は三重県にいたことになりますね(笑)」。
この時の実績が、評価され、新たなクライアントとなる「日高屋」に行くことになった
「日高屋は、業績云々ではなく、単純に人が足らなかったからでしょう。ただ、日高屋をサポートするのは私が初めて。それなりに重責です」。
リンク・ワンは創業3年で東証マザーズに上場している。クライアントが店舗数を拡大していくなかでも重要な役割を果たしたに違いない。ただ、成長のスピードが早すぎたんだろうか。いきおいが逆転すると、業績が落ちるのも早かった。
「私が退職する頃には、逆回転が始まっていました。私は、日高屋のつぎに、リンク・ワンとして、こちらも初の直営店の店長に抜擢していただきます」。
今度は、大阪梅田、お初天神。
「これが、めっちゃ苦戦します。2階がネギ焼きで、1階が餃子のお店です。ロケーションも悪かったのかもしれません。当時はチャオチャさんがブレイクしていた頃だったので、ネギ焼きはともかく、餃子はいけたはずなんですが」。
コンサルが理由がわからないというくらいだから、飲食は難しい。お初天神は、東通りと並ぶメインストリートだか、案外、飲食にとって難しいエリアでもある。
「ともかく、そちらを離れ、つぎがスープカレーです」。
これで、リンクワンを卒業。野田さん、26歳の時。
当時、部長だった深見浩一さんが、起業する時に誘ってくれたという。ホームページにある「2006年、株式会社PrunZを設立、取締役に就任する」とはこの時のこと。
ちなみに、深見さんは、京都大学卒。サントリーを経て、リンクワンに中途採用で、入社された人物。本人は、営業がしたかったようだが、基本、マーケティング畑を歩みつづけることになる。
「PrunZにいたのは、12年くらいです。深見さんは講演もしたり、コンサルティングで実績を上げておられて、私も出店が落ち着いた頃から、コンサルティングの仕事を始めます」。
PrunZは、海外にも進出。メインブランド「牛もつと大衆鉄板料理炎丸酒場」は、第5回「居酒屋甲子園」で優勝。全国1129店舗のなかでトップに立つ。また、「S1 ServerGrandprix 第7回全国大会」では、代表の深見さんが、日本一のサーバーに選ばれている。
この華々しい実績のうらで、野田さんが果たした役割が大きかったことは言うまでもない。プロ店長の経験を持つ野田さんだからこそ、打ち立てることができた実績であるのも事実。そして、38歳、野田さんが独立する。
「サブコンを創業したのは、2018年です。現在は飲食業向けのコンサルタント事業と直営飲食店の運営事業の2つの事業が柱です」。
直営店事業に目を向けると、「ヤマネ肉店」と言う昭和のネーミングに気づく。話を聞くと、実家の目の前にあったお店の名称だとのこと。
「小学校から縁があったんですが、残念なことに閉店してしまって。愛着があったもんですから、何とかしたいと思って。それで、ヤマネ肉店の出店を決意します」。
ホームページには「第5回居酒屋甲子園日本一経験をもつ野田洋行が『ヤマネ肉店』の3代目を継承」とある。
「ヤマネ肉店」の特長は何といっても、注ぎ放題、割り放題の、卓上蛇口、瞬間焼酎。グラスがカラになれば、店員を待つことなく、蛇口をひねればそれでいい。ただし、飲んべぇは要注意。タイムラグなく、酒をいくらでも注げるからだ。ちなみに、割材も豊富。このあたりは女子に人気のひみつかもしれない。
お客様を虜にするのは、このユニークなシステムだけではない。「やきとん酒場」と銘打つ、やきとんが旨い。豚は鹿児島から仕入れている。さすがコンサルと言いたいところ。
「目標は、フランチャイズを含め、100店舗」とのこと。
そのためには、業態開発や出店計画を立案する人材、フランチャイズを指導するスーパーバイザー、マーケティングができる人材と、いろんな人材の採用だ。果たして、そこにどんな手を打っていくのか。野田さんの本領発揮は、今からかもしれない。
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