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第602回 株式会社グルメブランズカンパニー 代表取締役社長 石井克二氏
update 17/08/08
株式会社グルメブランズカンパニー
石井克二氏
株式会社グルメブランズカンパニー 代表取締役社長 石井克二氏
生年月日 1965年2月23日
プロフィール 広島にある大学を卒業し、サッポロライオンに入社。新宿センタービルにあるビヤレストランを皮切りに、労働組合の書記長などを勤め、いまなお現役の日本最古のビヤレストラン「ビヤホールライオン銀座七丁目店」にて勤務。10年目にして支配人となるが、1年で、その職を離れ、現クリエイト・レストランツ・ホールディングスの創業に参加し、次々と新店を立ち上げていく。現在は、同社の関連会社、株式会社グルメブランズカンパニーにて社長を務めている。
主な業態 「JEAN FRANCOIS」「Bread&Coffee IKEDAYAMA」「EBISU FOOD HALL」他
企業HP https://goo.gl/u16MPM

野球、水泳、そしてボート。

東京、札幌、門司、広島、東京。今回ご登場いただく、株式会社グルメブランズカンパニーの社長 石井克二氏の足跡をトレースすれば4つの街が登場する。
小学6年生になるまで過ごした東京。小学6年生から高校1年まで暮らした札幌。大学に進学するまで生活した北九州市門司。そして大学4年を過ごした広島。
「父の仕事の関係です。父はサッポロビールで勤務していました。東京から札幌、門司と転々としました。中学までは野球。高校では水泳、大学ではボート部です」。
街がかわるたびに、スポーツも異なった。「大学ではもう気楽なサークルでいいと思っていたんです。ところがボート部の勧誘にコロリとだまされてしまって」。
「夏休みも、冬休みもある」が誘い文句だった。「それならサークルよりいいかって入部したんですが、入ってみれば休みは、年間5日だけ。正月も2日から練習です(笑)」。
当時の話を少し伺った。
「海での練習は、早朝か、夕方以降です。波が静かな時がいいんです。うちの大学は4人で漕ぐ種目にチャレンジしていました。漕ぎ手4人と、舵手1人です。ボートっていうのは、乗っているだけでバランスを取るのが難しいんです。それを4人で漕ぐわけでしょ。チームワークも大事になってきます。腕力も、体力もいります。私らも、いやというほどからだをいじめ抜きました。でも、たとえば六大学の選手たちと比較すると体格からして子どもと大人くらい違う。私らは170センチ、70キロくらい。でも、向こうさんは190センチ、100キロですからね。そういうのがゴロゴロいるわけですから、そりゃかないません」。
なんでも、距離は2000メートルもあるそうだ。それをおよそ7分で駆け抜ける。「漕ぎだすでしょ。1分もすれば止めたくなります。それほどハードなスポーツなんです」。
一時、膝を悪くし、部を離れるが、卒業するまで仲間とちからを合わせてボートを漕ぎまくった。それが広島時代の思い出。社会人になるまでの、足跡の集大成ともいえる。

サッポロライオンに就職。

「父に勧められてサッポロライオンに入社します。これが昭和63年4月のことです。いわば、縁故入社。最初は『石井』ではなく『九州支店長の息子』と呼ばれていました(笑)」。
「サッポロライオン」は、いうまでもなく「サッポロビール」の関連会社である。「サッポロビール」が銀座につくった日本初のビヤホール「恵比壽ビヤホール」は、「サッポロライオン」の創業を意味していると言っていい。
「当時、大卒はひと握りですから、私たち大卒は全員、幹部候補生です。私が最初に配属されたのは新宿センタービルにあるビヤレストランでした」。
飲食。石井氏が就職した昭和63年当時、飲食はいまだ「水商売」という言葉でひとくくりにされていた。「大学まで出て、どうして飲食に」と首を傾げる人もいた時代である。
たしかに、好きで飲食を選択する学生もいたが、石井氏のように、ほかに行くところがなく、ただ何となく選択したという人も少なくなかったはずだ。ただ、前例の少ない、ある意味勇気ある選択をした当時の大学生たちが、いまの飲食をつくっていると思うと感慨深い。
「飲食の経験は学生時代に『ちゃんぽんの店』でバイトをしたくらいです。別段、飲食に進む気もなかったものですから、ぜんぜんちからも入んなくって。実は、半年で寮も追い出されてしまうんです」。
ビヤホール。仕事が終わるのは深夜ちかく。そこから酒を酌み交わす。「あの頃は、毎晩、歌舞伎町に繰り出していました。そんな生活をしていたから、半年で追い出されてしまうんです」。
祖父の住まいが東京にあったから、しばらく厄介になった。しかし、深夜に帰宅する生活は、一般の人たちとリズムがまったく異なる。
「後輩に住まいをみつけてもらって、一人暮らしをはじめます。店も新宿から銀座に移って。そう、それからです。飲食にどっぷり漬かり始めるのは…」。

日本最古のビヤホールで、教えられたのは全身全霊のちから。

銀座七丁目に、現存する日本最古のビヤホールがある。
「1階から6階まであって、規模・売上はもちろんですが、ともかくサッポロライオンのなかでも最重要なビヤレストランです。私が29歳の時、ちょうど構造改革が進み、若返りが図られました。サッポロライオンを象徴する、このビヤホールでも、それまでの体制が見直され、支配人3人体制から総支配人1人、副支配人3人となり、そのうちの1人に選ばれたんです」。
むろん、親の七光りではない。いまだ飲食の仕事にハマってはいなかったが、石井氏は労働組合に専従するなど、さまざまな経験を積んでいた。幹部候補というのは、間違いではなかったのだろう。
「たしかに労働組合も経験して、全国の店を回り、20代後半にして会社に知らない人がいないくらいになりました。だからといって、飲食の仕事に心底、目覚めたわけじゃありません。私に飲食の醍醐味を教えてくれたのは、現存する日本最古のビヤホール『ビヤホールライオン銀座七丁目店』であり、私と同時期に若くして、このビヤホールの総支配人になられた方なんです」。
いまも親交がある、という。「総支配人がいたから、いまの私があるといっていい」と石井氏はいう。「これだけ私の人生に大きく影響した人はほかにいません。なんと言ったらいいんでしょう。彼は、全力なんです。全力でお客様と向き合っておられました」。
夏になれば、ビヤホールも、ビアガーデンも人で溢れる。スタッフだけでも500人を超える時があったそうだ。それだけの人たちをコントロールする。醍醐味も石井氏を魅了した。
「総支配人は『いつもありがとうございます』と大きな声で、お客様を迎えられます。オーバーアクションなんです。でも、イヤミがない。だから、総支配人のファンがどんどん増えていきます。みなさんどう思われているかわかりませんが、銀座はいまも下町で、とても人情味がある街なんです。歴史のある、うちの店は、そのコミュニティのなかにしっかり組み込まれていました。総支配人は、そのコミュニティのなかで、うちの店が果たすべき役割を見事に演じておられたのだと思います」。
磁力のようなものだろう。「ビヤホールライオン銀座七丁目店」は、銀座で暮らす人たちにとってもかけがえのない店だったにちがいない。
総支配人の薫風を受け、やがて石井氏は、この店で総支配人の片腕ともいえる支配人代理となる。
つぎにめざすのは、支配人の席である。
「私は、同期のなかでいちばん支配人になるのが遅かったんです。でも、それだけ時間をかけて育ててもらったわけで、とっても意味のある経験をたくさん積ませていただいたと思います。
石井氏が支配人になったのは入社して10年目。初めて責任者として乗り込んだのは、田町にある小さなビヤレストランだった。

転機。「新しいことに賭けてみたい」の思い。

「オープンしてまだ3年目で、赤字がつづいている店でした。ランチはいいんですが、ビヤレストランなのに夜がさっぱり。それが原因でした。でも、当時、田町の夜に人はいなかったです。だから、フラリと店に立ち寄るのではなく、わざわざうちの店に来ていただけるようにしなければならなかったんです」。
「年配の方も多かったもんですから、料理にも、和のテイストを加えました。その一方で、総支配人譲りのオーバーアクションで、ファンを獲得していくんです」。
全身全霊。
その言葉通り、すべてを捧げた。
「趣味でやっていた陶器で、お客様の心をとらえたのも、この時です。常連さんの、お名前入りの陶器を、私がこねつくりました。パスタのお皿やお猪口などです。みなさん、たいへん喜んでくださって」。
飲食は、人と人だと、石井氏はいう。その醍醐味は、規模や売上ではなく、人の人生にかかわること。だから、全身全霊で取り組める。
「お客様の人生のどこかに、私たちの仕事が彩を与えている。そう思うと、ちからが入るんです」。
サッポロライオンで過ごしたのは、10年。つまり、支配人の経験は1年に過ぎない。その1年の短い間にも石井氏は、何人ものお客様と接し、人生に彩りを与えてきた。石井氏が贈った陶器を今尚、大事にされている人もいるだろう。むろん、石井氏も大事なお客様と別れるのは、後ろ髪をひかれる思いだったに違いない。
「田町の店に、昔の先輩がいらっしゃったんです」と石井氏。それが転機の引き金となる。けっして相性の合う人ではなかったそうだ。しかし、その方が語る話には「強烈に興味をそそられた」という。
「現クリエイト・レストランツ・ホールディングスの立ち上げの話だったんです」。
クリエイト・レストランツが事業を開始するのは、1999年5月1日。
「お誘いを受けたのは、その年の2月くらいでしょうか。転職するといっても、期間は3ヵ月くらいしかなかったんです。いま思えば、私もまだ若かった。そのままサッポロライオンにいれば安定は間違いないと思っても、新しいことに賭けてみたいという思いが強くて」。
父にも、当時の社長にも頭を下げた。当時の社長は、「だめだったら、もどってくればいい。行ってこい」とむしろ背中を押してくれた。感謝である。だが、逆にいえば、そこまで言ってもらっては、そうやすやすともどれない。
「クリエイト・レストランツに転職する1日前まで、サッポロライオンで仕事をしていました。そして翌日、クリエイト・レストランツに入社。その日が、会社設立の日です」。
石井氏は、エリアマネージャーとして、東京の台場にあるイタリアン「portofino」等をマネジメントする。
初月の売上が、7700万円になったというから、まさにモンスター店舗である。その激しく暴れるモンスター店舗の舵を見事に取ってのけた。

前例のないものへのチャレンジ。

「売上もハンパありませんでしたが、当初はクレームもすごくあって」と石井氏は笑う。
「地中海料理が一般的ではなかったんです。ま、私たちも、それがわかっていて敢えてチャレンジしたんですが。地中海料理というのは、地中海沿岸の料理です。ギリシャやモロッコ料理など、日本人が食べ慣れた料理じゃないんですね。だから、お口に合わない(笑)」。
20代の女性たちが、真摯なクレームを入れてきた。「私たちは、入店するのに1時間も待った。だから、もうお腹もペコペコで、正直、たいていの料理を旨いと思うはず。にもかかわらず、このレストランの料理は、不味い。不味くて食べられない」といった内容だった。苦笑するしかなかった。
「家族で食べに来た、うちの女房もおなじようなことを言っていました。『あなた、あのお店大丈夫なの。あんなにお料理が不味くて』と言って(笑)」。
いまなら、ギリシャ料理専門店も、モロッコ料理専門店もある。イタリア、スペイン、ポルトガル、ブラジル、タイ、インド料理、と色とりどりである。
「たぶん、そういう前例のない分野にも果敢に挑戦してきたのが、クリエイト・レストランツという会社なんです。私が最初に興味を惹かれたのも、そういう会社だったからです」。
クリエイト・レストランツ・ホールディングスは、すでに株式を上場している。今回、登場いただいた石井氏が率いる株式会社グルメブランズカンパニーは、2015年、ベーカリー・スイーツ系の事業を引き継ぎ、誕生している。

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