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第888回 株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 川井潤氏
update 22/07/05
株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス
川井潤氏
株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 川井潤氏
生年月日 1963年10月7日
プロフィール 東京都大田区出身。父親は大学教授、母親は高校教師という「教育一家」に生まれ育つ。父親の仕事の関係で生後間もなく小学2年生まで札幌で過ごし、生まれ故郷の東京に戻る。中高一貫の男子校として名高い筑波大学附属駒場中学・高等学校に進学し、いわば当然のように東大を受験するが二度とも不合格。19歳にして“挫折”を味わう。早稲田大学卒業後、日本興業銀行(興銀)に就職するも、金融危機で興銀は事実上消滅。40歳を前にして“パパ友”として面識のあった前社長の岡本晴彦氏からの誘いを受け、前身の『クリエイト・レストランツ』に管理本部長として入社。2021年5月より社長に就任し、現在に至っている。
主な業態 「雛鮨」「しゃぶ菜」「はーべすと」「TANTO TANTO」「吉座」「おもてなしとりよし」「磯丸水産「つけめんTETSU」「きみはん」など
企業HP https://www.createrestaurants.com/

教職者の家系、環境に生を受ける。

東京都大田区で生まれた川井氏。両親とも教職者であり、当の両親や川井氏本人は意識するかどうかは別として一般的に言うなら「インテリ階級」「高学歴階級」と思われる家庭に生を受けた。1963年のことだ。
「広島出身の父親、川井健氏は大学教授、東京都大田区生まれの母親は高校教師でした」。民法を専門とした法学博士である父親は、1986年から1989年までの3年間、一橋大学の第11代学長を務めた。また、祖父・川井清一郎氏も教育者であったという。つまり川井氏が生まれ育った環境は、根っからの教育者家系だったのである。

北の大地で伸び伸び育つ。

川井氏が生まれた1963年、家族は北海道大学教授であった父親の赴任地、札幌に引っ越し、広々とした大地、環境で幼少期を過ごした。
「生まれて間もない頃から8歳の頃まで札幌で過ごしました」。
今年、市制施行100周年、政令指定都市50周年を迎えた札幌市だが、川井家が転勤した当時は、区政ではなく人口も約100万人(現在は約190万人)でありながら、東京以北最大の都市だった。
北海道の魅力は、「大きな空と広い大地」。こうした東京にはない恵まれた環境で大らかに伸び伸びを過ごした日々にも、やがて去る日が訪れた。
1971年、父親の一橋大学法学部の教授に赴任したことに伴い、生まれ故郷の東京に戻り、東京都国立市の国立第二小学校に転校、小学校2年の時だった。

幼いながら不思議に思っていた父親の職業。

話がやや横道に逸れるが、幼い頃、父親の職業を不思議に思ったことがあると振り返る。
「友だちの話から父親は朝、勤務先に出勤し夕方帰宅するのが当たり前だと思っていたんですが、我が家はまったく違いました」。
小売業や飲食業、農水産業など自宅が勤務先になる職業がある。一方で会社や役所などの朝、勤務先へ出勤し夕方に帰宅するという仕事もある。大学教授の場合は、どうなのだろうか。
「いつ仕事をしているのかわからないんです。いつも家にいて書斎で仕事をしていましたし、夏休みも冬休みもありました。さらに土日や夜は家族で過ごすことが当たり前でした」
いまなら働き方の多様性など理解できるが、当時、友だちから聞く家庭像や父親像とはどこか違う父親の姿に、子どもながら不思議に感じていたようだ。
教育者である両親、4歳下の妹の4人家族で過ごした川井少年の小学校から高校までの生活を振り返ってみよう。

理不尽な差別?些細な理由から受験競争へ。

1971年、国立第二小学校に転入。「1学年5クラスで、1クラス40人程度だったと思います」。いわゆるマンモス校ではないけれど小さな規模でもない。
「転校して一番驚いたのは、泳げる人と泳げない人(いわゆるカナヅチ)に分けられ、優劣を付けられたことです。自分はもちろんカナヅチ派。というのも冬、降雪の関係もあり北海道の小学校にはプールがないんです。だから体育の授業に水泳がないんです。こんなことで競争させられることには、子どもながら理不尽に感じましたし、正直なところ傷つきましたね」。
結局、負けず嫌いな性分も手伝ったのか、「中学受験を睨んだ勉強に取り組むことで、この理不尽な世界から脱出したいっ!って思っていました」。

世の中、“頭のいい奴”っているものだ。

「教育者一家だったこともあり教育熱心な環境というより、勉強するのが当たり前の雰囲気がありましたし、特にプレッシャーもなく自発的に取り組みました」。
受験勉強の甲斐があり、晴れて中高一貫の男子校、筑波大学附属駒場中学・高等学校(旧東京教育大学附属駒場中学校・高等学校)に入学。入学したらしたで、また驚かされる事実に直面することになる。
筑波大学附属駒場中学・高等学校は、東大をはじめ超難関大学への合格者が多いことで知られている。川井氏が合格・入学したのは、日本でトップクラスともいえるエリート輩出校だ。 同校の生徒数は中高一貫ということで中学校が120人、高校になると高校受験で入学してくるのがプラス40人、合計160人ほど。このうち100人以上が東大に進学する。
「帰国子女(男子校なので帰国子男)もいましたし、同級生は頭のいい奴ばかりで、衝撃を受けましたね。それと明確な将来のビジョンを描いている奴や、学業ばかりではなく、スポーツでも芸能でも才能のある奴が多かったですね」。
では、本人はどうだったのだろうか。
「中学時代は将来のビジョンは特にありませんでしたが、ぼんやりとですが教師の道に進むことも考えていました」。両親とも教育者という影響かもしれない。
中高6年間、特に際立った活動はしていたわけではないが、テニス部に所属。
「自由な校風でしたし、もともと水泳が嫌で受験を目指しただけでしたので、中学の成績は半分以下、あまり勉強はしませんでした」。とは言え、高校生になると大学受験が視野に入ってくる。

東大受験に二度失敗し、早稲田に進学。

教育者の家庭で育ったこともあるのか、さして親が進学を強要したわけでもなかったが、高校2年で模擬試験を受け始めたことをきっかけに大学受験の実感が湧いてきたという。
進路について両親からは特にアドバイスはなく、自由だったようだ。
「進学先ですが、周りの雰囲気からして私大は考えられず東大を受験するんだろうなと、漠然と考えていました。なんか私大に進むと同窓会にも顔を出せないような空気を感じてもいました」。こうした環境に身を置いた経験のない者にとって理解し難い側面もある。とは言え、東大文Tを受験することに決定。
受験前、最後の模擬試験で一番の成績だった実績を引っ提げ受験に臨んだが、見事に不合格。
“捲土重来”を期して一浪、予備校へ通って1年後、再度、東大を受験。結果はまたしても不合格。つまり東大への挑戦に2度、失敗したことになる。
それなりに自信もあったのだろう。突きつけられた事実に、ショック、ダメージを受けたことは否めない。大袈裟に言うならば19歳にして“人生初の挫折”を経験した。最終的に、中学・高校であまり意識していなかった私大、早稲田大学法学部に入学、複雑な気持ちのまま大学生生活がスタートした。
一方で、東大受験には失敗はしたけれど、人の出会いとは不思議なものでこの予備校時代、後々、現在の仕事に繋がる人物とすれ違いがあった。ただし、この時点ではお互い面識も付き合いもなかったが……。

体験したことのない価値観に出会う。

“東大一直線”というギャグ漫画があったが、東大を目指す子どもたちにとっては、ギャグで済まされる問題ではない。「東大合格当たり前」的な環境、雰囲気の中で育ったことによって形成された同質な価値観しか知らない、体験したことがない川井氏にとって、私大の雄とも評される早稲田大学の自由闊達でバンカラな雰囲気は新鮮そのもの。
「これまで培われた競争だけの価値観とは異なる世界にショックを受けましたし、人間的な魅力にあふれる同世代に出会ったことも驚きでした。つまり、こんな世界があるんだよ!こんな人間がいるんだよ!と驚きの連続でした」。極端にいえば“目から鱗”か。
「中学・高校の6年間、テニス部に籍を置いたこともあり、テニスサークルに入ったり、家庭教師や塾の講師などいくつかのアルバイトを体験しました。そうそう、コンビニのアルバイトもしました」。話を聞くかぎり、どこにでもいるような普通の学生生活だったようだ。
“時”が経つのは早い。気が付いたら4年生。現在、大学生に就職活動は3年生の春あたりからスタートするようだが、当時は4年生の8月に解禁。
さぁ、どんな職業に就こうか?どこを受けようか?どこを目指そうか?就職活動が始まった。

企業の人気度が就職の目安。興銀に決めた。

就職は学部によって左右される場合が多々、ある。また人気のある企業かどうかも判断材料の重要なファクターだ。川井氏が希望したのは、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、三菱銀行、そして日本興業銀行(いわゆる興銀)の3社。
「銀行に行くと決めていたわけでもありませんでしたが、知名度が高いとか、給与面など待遇がいいとか、人気があるとか、そんな判断基準で選んだと記憶しています。どこかで東大受験の失敗を挽回しようという気持ちが働いたのだろうと思います」。
「興銀については、父親が教鞭をとっていた大学のゼミの関係で存在を知った程度ですから、企業風土など、むしろ未知だったかも知れませんね」。
ともあれ、1987年、興銀に入社。23歳になっていた。

銀行の中枢部門で活躍したものの…

銀行の中での出世争いという新たな競争が再び始まった。仕事は名古屋支店からスタート。
「名古屋支店には5年半ほどいましたが、なかなか本部への異動の話もありませんでした」。ただ、手をこまねいていたわけではなく、人事部にアピールするため留学生試験を受け、1993年〜1995年まで、アメリカ・シアトルの法科大学院(ロー・スクール)と弁護士事務所で法務を学び帰国。 「帰国後に配属になった法務部での活躍が認められ、憧れの総合企画部に異動となりました」。
総合企画部といえば、銀行本部の中でもエリートが集まる中枢の部署である。将来的に役員に就任することも夢ではない。しかしながら、金融危機が到来する激動の時代である。1999年、金融再編成の動きが確実に進行していた。
「1999年のGW明けだったと思いますが、第一勧業銀行、富士銀行、興銀の3行統合の事務局の仕事を内密に命じられました。100年に一度あるかないかの重要な仕事を任され誇らしさを感じた一方、最初の就職先として選んだ興銀が事実上消滅することに寂しさも感じました」。
嫌な予感は当たるもので、その後2000年にみずほ銀行が誕生すると、システムトラブルによって銀行のブランド価値は大いに傷つくことになる。いわば“人生二度目の挫折”とも言える感覚を味わった。そんな中で、川井氏の中では新たな生き方の芽が生まれ、成長していたようだ。

“人生半ばの過渡期”。40歳にして転機の予感。

仕事に慣れ、それなりの経験を重ねる一方で、いわゆる先が読める状況が40歳前後に訪れることが多いようだ。こうした事実を裏付ける “人生半ばの過渡期”という心理学理論がある。
川井氏も「40歳を前にした頃ですが、このまま銀行でいいのか?ある程度先が見えてきましたし、このまま安全運転を続けて定年を迎えるもどうかなぁという考えが頭を過っていました」と述べている。
「自分なりにバンカーとしてのキャリアを俯瞰してみたり、三行統合の事務局を経験する中で、経営のダイナミズムに触れたこともあり、比較的早い時期から企業経営に携わってみたいと考えていたのは事実です」。
ここで、ある人物との関係が甦る。予備校時代、ある人物との出会いがあったことは述べた。彼の名は岡本晴彦。その岡本氏との出会いもまた偶然。子どもが通っていた幼稚園の“パパ友”として再会、交流が生まれていた。
岡本氏の経歴も実にユニークで、東大卒業後、三菱商事に入社。日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社の物流システム改良のため派遣されたことで飲食業に出会ったとのこと。以後、数々の飲食業のビジネスモデルを構築するなどし、三菱商事在職中に、前身の『クリエイト・レストランツ』を創業、2003年、三菱商事を退社し社長に就任。
新たな生き方を求めていた川井氏。社長として上場を目指していた岡本氏。仕組まれたような出会いが、川井氏の“次”を力強く後押した。

2003年、意を決して退社。飲食業へ転身、上場を実現。

岡本氏からの誘いに退職を決意し、『クリエイト・レストランツ』に入社したのが2003年。
「飲食業の経験はまったくありませんでした。ただ、既存のファスト・フードやレストラン・チェーンと競争するのではなく、新しい立地に合致したブランドをゼロから創造していく、という新しいビジネスモデルに大いに共感しました。銀行マン時代、飲食業界とは融資などで関わったことがあったことと、先ほども述べましたが経営に携わりたいと思っていたことや岡本さんから上場させるビジョンを伺ったことも決断を促しました」。
大銀行の中枢部で将来を約束されたポジションを捨て、飲食業のベンチャー企業に転職するには相当の覚悟が求められるだろう。しかしながら川井氏は、銀行のような狭い世界の中で競争にしのぎを削るのではなく、自由な発想で新しい時代を創造するためにベンチャー企業でチャレンジしていくことに大きな魅力を感じた。こうした価値観の息吹は、幼少期を伸び伸びと過ごした北海道時代、あるいは自由闊達な雰囲気の早稲田大学時代に培われたものではないだろうか。
「当時の店舗数はたった30店ほどでしたが、人間的に魅力にあふれる、やる気のある従業員が多かったですね。飲食業は、良いお店を作ればすぐに沢山のお客様に来て頂ける。銀行時代に比べて結果が見えやすいだけに、工夫や対策を迅速に実施することができます。まさに当社の経営理念である『スピード・クリエイティブ・チャレンジ』を発揮できる場だと思いました」。
とはいえ、全くの畑違いの転職に、入社当時は戸惑いも隠せなかったようだ。
「もちろん活力はあるのですが、ルールや文書が全くないのには驚きました。三菱商事から出資を受け、その信用力をテコに店舗数を拡大する以上、上場を達成するというのは三菱商事との約束でした。従業員のためにも、管理本部長として成長戦略を構築すること、社風や企業文化と合わせて、上場会社としての社内ルールを整えることに一生懸命でしたね」。
そして商業施設への出店ラッシュにより店舗数が200店を超えた2005年、東京証券取引所マザーズ市場に上場を果たした。
「当たり前ですが、当社グループのような若い飲食企業においては、学歴や社歴、年齢は関係ありません。大事なのは新しい価値を創造できるかどうか。社内から絶えず新しい商品・サービス・業態を生み出していくには、失敗を恐れずチャレンジする社風が必要です。失敗の経験値を得て再チャレンジすることで成功に近づくことが出来ます。当社グループの成長に触れて、東大受験の失敗を“挫折”と思っていた昔の自分の小ささが恥ずかしくなりました」。

新業態開発とM&Aでさらなる成長を叶える。

三菱商事からの独立と東証一部(現在のプライム)市場上場を経て、M&Aや海外進出により、なお発展し続ける同社。現在1000店舗を越える店舗数にまで拡大したが、2020年2月に始まったコロナ禍により成長に急ブレーキがかかる。川井氏が社長に就任したのは、そんなコロナ禍真っ最中の2021年5月。当然、戦略の見直しが求められる。いち早く筋肉質なコスト構造への転換と財務体質の改善によりV字回復を達成すると、これまでの「量」の成長ではなく、「質」の成長に大きく舵を切った。
「事業を成長させるためには、企業ごとに違った考えや戦略があると思います。当社グループが考え実施するのは、過去の成功体験に縛られることなく、様々な立地に合致する新業態の開発とM&Aによって、グループ全体として末永くお客様に支持される店舗を増やしていくことです」。
「人が集まっている所はどこか、その立地に合致する業態は何か、を常に考えています。また小規模ながら上手く展開している企業などは、ニーズが合えばM&Aを通じて当社にグループインして貰うことで、それぞれの強みを活かすことができるとも考えています」。
ロードサイド、駅前、郊外SC、都市SC、スポーツ施設やレジャー施設など、アフター・コロナの世界でも拡大・発展する立地のポートフォリオを揃えるなど余念がない。
「当社のグループ・ミッションは『わくわく無限大! 個性いろいろ ともに創る 驚きの未来。』です。食を通じて、お客様や従業員など、皆様にワクワクしていただけるようなことを常に提供していきたい。まだまだ課題はありますが、お客様の行動様式がコロナ前に完全に戻ることはないと思いますので、飲食業全体の売上高が減少する中で、従業員とともに持続的に成長する仕組みを確保することが重要だと思っています」と語る。
一見すると、ある意味でエリート家庭に育ち、有名進学校から一流大学へ進み、知名度の高い企業に勤めた川井氏。その陰で、川井氏なりの人には語れない“挫折”も味わってきた。その川井氏が「失敗を恐れず、むしろ失敗から学んでスピードをもってクリエイティブにチャレンジする」社風のクリエイト・レストランツ・ホールディングスの社長に就任したのも偶然ではなかろう。
“挫折”を乗り越え、自らの能力を余すところなく、惜しむことなく発揮し生きてきた川井氏の言葉の端々には、「飲食ビジネス」という戦略、戦術が散りばめられている。

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旧・興銀ビル前にて 2009年上海豫園にて
(後藤・川井・岡本)
 
 
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