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第906回 株式会社KRフードサービス 代表取締役社長 望月 進氏
update 22/11/08
株式会社KRフードサービス
望月 進氏
株式会社KRフードサービス 代表取締役社長 望月 進氏
生年月日 1973年7月25日
プロフィール 兵庫県神戸市に生まれる。祖父、父親とも公務員、母親は中学校の音楽教師という、世間では“真面目”と思われている家庭に育つ。しかし本人にとって両親の考えは“固定観念に捉われた没個性的”な価値観に思われ、自由な、個性的な生き方が魅力であり、また調理師学校で学ぼうとするなど飲食業に関心が高かったこともあり、大学卒業後、飲食業を展開していた大阪ガスの子会社に就職。以後、大阪ガスの撤退に伴いファンドによる経営へ移行。31歳のとき東京進出を果たす。2015年に飲食業大手のクリエイト・レストランツ・ホールディングスと資本提携、現在に至っている。
主な業態 「かごの屋」「焼肉じゅん」「ひゃくまんぞく亭」「銀河離宮」「みのりみのる」他
企業HP https://www.food-kr.com/

祖父と父親は公務員、母親は教師という絵に描いたような“お堅い”家庭に生まれ育つ。

いわゆる“お堅い”家庭に生まれ育った望月氏。生まれたのは兵庫県神戸市。1973(昭和48)年のことだ。
「秋田出身の祖父の代から父まで、公務員の家庭に育ちました。厳密に言えば、祖父は生糸関連を扱う国家公務員、三人兄妹の次男だった父も公務員でした。母は兵庫県加古郡出身で中学校の音楽教師でした。母方の祖母も教師でした」。世間一般から見れば公務員の父、教師の母という家庭は、ある意味では“真面目な家庭”“羨まれる家庭”と受け取られたのかもしれない。すべての公務員に当てはまるわけではないが、一方では公務員には公務員ならではの価値観があるようで、望月氏も“公務員ならではの価値観”の環境で育てられたともいえる。
「両親は厳しかったです。“〇〇すべき”という“べき論”に価値を見出していたのか、あるいは教育方針なのか、どちらかと言えば、学校教育にしても躾や礼儀作法など家庭教育にしても型にはめ込むような教育でした」。
「また、大学に行くまでですが、祖父、両親、3歳下の妹を含む三世代同居だったことも影響していたのかも知れませんね」。因みに、関西地方は“三世代同居”の比率が関東に比べて高いという。望月氏は、そんな家庭で育った。

自我に目覚めた中学時代、親の考えとの違いに気づく。

小学校、中学校とも地元の公立校で学んだ望月氏。
「小学校の頃、公務員一家のためなのか両親に中学受験を薦められ塾に通ったんですが、5年生のとき受験することを辞めました。あまり覚えていませんでしたが勉強は嫌いでした」。
1973(昭和48)年生まれの望月氏。いわゆる第二次ベビーブームにあたり“団塊ジュニア”と称される世代で新生児の数も200万人と多い(参考までに2021年は約80万人)。必然的に小学校も中学校も、高校もクラス数は多い。
「中学校は8クラスでした。あまり勉強をしたつもりはないのですが、成績は学年で5番目くらいだったと思いますし、生徒会の活動を務めたこともありました。その一方で、番長と呼ばれる不良的な連中とも仲が良かったですね」。
一般的に“14歳の壁”“中2の壁”ともいわれる年頃、“自分は何者であるか”という疑問を自分に投げかける時期だといわれている。望月氏も「親が言うこと、つまり親の希望と自分の考えが違うなと感じていました」と振り返る。

固定的な価値観から解き放された人生を送りたい。

そして高等学校は県立高へ進学。
「兵庫県の公立高校で県立長田高校と県立星稜高校で悩み、結果、星稜高校に進みました」。
因みに県立長田高校は2020年創立100周年。県立星稜高校は1878年に前身の神戸商業講習所と、両校とも歴史のある高校である。
「自宅からもいちばん近い学校で服装も自由。男女共学で生徒数は1学年500人以上、12クラス編成でした」。高校3年間、よく遊び、悪友との付き合いも生まれるなど、学業とはかけ離れるばかり。当然ながら成績は下降の一途だったと語る。
「成績は最終的には500人の下から数えたほうが早いくらいまで落ちました」。
人生には多彩な「教師」が存在する。最も身近な教師は“親”だろう。なぜなら“親”は子どもが出会う最初の“人生の見本”だからだ。良きにつけ悪しきにつけ、“親”の影響は絶大なものがあり、結果的には逃れられないものだ。
「先ほども言いましたが、祖父も父も公務員、母は教師でしたから固定的な価値観が強かったように思います。そうした、両親のような生き方が平凡な人生に見えたんですね。だから自分は高校生なりに、親の価値観に左右されず自分なりの人生を創ろうと思いました」。
『平凡は非凡なり』。その意味するところは、簡単にいえば“平凡に生きることが、実はいちばん難しい”ということだが、反面、没個性に写るもかもしれない。どこかで“平凡ではない、没個性ではない個性的な人生”を送りたいと思うのも当然だろう。
「振り返ってみれば親が反面教師だったことは間違いなく、そこを起点に将来の人生を思い描いたように思います。ただ、お金持ちにはなりたかったですね」。
親が描いた固定的な価値観の呪縛から逃れ、自身の価値観に沿った“自立”への歩みは、大学時代から始まった。

飲食業への道を歩みはじめた学生時代。

「両親には調理師学校に行きたいと言ったのですが、大学だけは行きなさい、調理師学校に行くなら卒業して自分のお金で行きなさいと諭されました」。
1年目は受験せず、一浪して大阪経済大学へ進学。大学時代は実家を離れ下宿生活をしていたとか。
「入学後間もなく梅田にあったイタリアンレストランの厨房でアルバイトを始めました。厨房スタッフが4〜5人、40〜50席の本格的なイタリアンの店でした。時給が良かったこともありますが、卒業まで4年間、続けたんですよ。しんどいこともありましたが職場環境が良かったことと、料理長のスキルに憧れたことも続けられた要因だと思います」。
学業とアルバイトに明け暮れていた日々。大学2年も終わろうとしていた1995(平成7)年1月17日、神戸を中心に未曽有の大地震が襲った。『阪神淡路大震災』である。ある意味で人生観が変わるような災害だった。
「さっきまであった街並みが一変した景色に言葉を失いました。幸いなことに家族は無事でしたが実家は半壊、大規模火災が起きた長田地区の友人も亡くなったりしました。ある種の虚しさとでも言うのか、いつ死んでもおかしくないなと思いましたね」と震災がもたらした心的影響や人生観への影響を振り返る。
4年間の学生時代を経て卒業。元来、高校卒業時に調理師学校へ行きたいと希望していた望月氏。つまり、調理師学校へ進むということは視点を変えれば飲食業へ進むということに結び付く。

成功のチャンス、偉くなるチャンスは飲食業にあり。

望月氏が卒業したのは1996(平成8)年。1986年(昭和61)年12月から51か月間続いたバブル景気が崩壊した後のことだ。
「各企業とも求人を減らしたのか、大学の就職課には思うような企業はありませんでしたが、就職するなら飲食業にと限定していました。なぜなら飲食業であれば成功できるチャンス、偉くなれるチャンスがあると思ったからです」
就職にあたり優先的に考えたことがあった。
「経営と仕組みを学びたかったことと結婚を控えていたので、企業を中心に受けました」。
因みに奥様は大学1年のときに知り合った女性で、卒業後の23歳で結婚、27歳で父となった。
「ロイヤルホストやサイゼリアも受けましたが、最終的に大阪ガスの子会社に決まりました。ガス会社が飲食と思われるかもしれませんが、子会社を通して大阪ガスがガス供給のできるエリア内で飲食業を展開していたんです。当時は“かごの屋”が7店舗ほど、他業種で数店舗ほどでした」。
職場は長時間労働が日常的で9:00〜23:00まで、14時間働いたという(現在なら過労死ラインを越えて問題になる筈だ)。
「同期は40人くらいいましたが、その中の1人、戦友でありライバルでもある男が経営企画に異動、私は入社1年経った頃に自らが希望して商品開発に異動しました」。
その後2年ほどして望月氏は店長に。「ちょうどその時期は、売上があがる時期でした」とのこと。一方で、ある意味では目標にしていた“社長になりたい”“偉くなりたい”という思いだったが、社長になれないことに気が付く。時計の針を入社時に戻してみよう。
「同期入社は40人くらいでした。実は入社早々、同期の前で社長になる宣言をしたんですが、不可能だということに気が付きました」。
その理由は、経営母体が大阪ガスの子会社ということ。つまり社長(に限らず幹部も)大阪ガスからの出向というのが慣例というか仕組みで、プロパーである望月氏が社長になれる道は、最初からなかったことに他ならない。
ところが思わぬ展開が繰り広げられることになる。それは経営母体が“ファンド”に変更になったことだ。

“ファンド”による経営は、東京進出という道を切り拓いた。

大阪ガスが子会社の株をファンドに売却。その結果、社長以下役員を含む約40人が会社を去り人事が一新した。
「中枢の人たちはファンドから補充され、その他の幹部職は中途採用した人たちで構成されました。30歳代そこそこだった私は部長職に昇格しました」。と同時に経営思想も大きく変わった。
「ファンドって、飲食業かどうかは別としてどのような事業であれ“儲かるか、儲からないか”が判断基準なんですね。中身が変わっただけではなく、根本的に話が合わないんです。ただ、いつまでも“話が合わない”では進展もありませんから、MBA研修で経営などについて学びました」。
一方でファンドによる経営は、東京への進出という新たな事業拡大のきっかけになった。
「当時、“かごの屋”は大阪で展開していた60店舗からの拡大が難しい状況でした。しかし、ファンドによる経営は、東京への進出という新たな事業拡大のきっかけとなり東京進出が実現されました」。

“顔面神経痛”と引き換えに手に入れた東京での成功。

「31歳のとき、東京立ち上げのプロジェクト・マネージャーとして東京に転勤になりました。転勤にあたり単身赴任ではなく家族揃って練馬区の石神井公園に移転しました」。
言葉の違い、出店場所の選定、人材確保など、未経験の地での格闘がはじまった。東京の人口は大阪の3倍と多く、その上ライバル店も多い。
「東京での商いの方法を見出すまで、苦労が絶えませんでした。大阪での成功体験のまま東京に進出したのですが、他社との差別化ができていませんでしたし、味や仕組みを変えてみても成果が得られませんでした」
「大阪と東京の違いを簡単に言うと、大阪は全方位型、東京はセグメント型ということになります。そこで、近所の主婦をターゲットにした結果、東京進出3年目にして、ようやく東京での売り方、商いの方法がフィットしはじめ売上が伸びだしてきました」。
一時は“顔面神経痛”になるほどの苦労を重ねた望月氏。8年目にして店舗数も26店舗までに拡大した。
「ファンドから見れば、成長とは売上が増えることと店舗数が拡大することが評価の基準なんです。その意味では、それなりの結果を出したと思います」。
こうした経験を踏まえ関東で成功するための立地開発のノウハウを身に付けた望月氏。東京・世田谷区経堂から郊外への出店に漕ぎつける。
その後、ファンドからオリックスへ売却された際に取締役に昇格。「最初のファンドは個人によるファンドでしたが、オリックスは自分が成長するためのファンドでした」。
どちらにせよ苦労があったが「どんな苦労にも耐えられる免疫ができました」と過日の出来事、重ねた苦労の日々を一笑にふす。
2005年、事業の一環として飲食業を展開していた大阪ガスのグループから自立し、オリックスなどによるファンド経営を経て2015年、クリエイト・レスチラント・ホールディングスと資本提携。
「KRホールディングスの社長に就任した2年後、新型コロナによる資金面なでで苦境に直面しました。2020年のことです。おかげ様で資金面で助けられましたが、親会社があってつくづく助かったと思います」。

社会の変化・状況に合わせブラッシュアップすることが必要。

2020年、世界を襲った新型コロナウイルス。「まん延防止措置」「緊急事態宣言」による時短営業や休業など飲食業が被った損失は大きく、未だコロナ禍前に戻ったとは言い難い。
「コロナ禍は損失と引き換えに新たなことを学ばせてくれましたし、新機軸の必要性を示唆してくれたように思います。たとえばですが、将来的には減速経済でしょうし、人材面や社会、ヒトの価値観も変化するでしょう。飲食店の現場は“作業”と“サービス”に分けられます。まず、この二つの違いを明確にすることが大事です。そして“作業”はロボットなどによる代替が可能な部分があります。今後は実験的に取り組んでみたいと思っています。人材採用などの面では、現在、単独採用とその後のグループ内交流などの方法を実施していますが、今後は他社への出向も視野に入っています。また仕入れ面ではよりスケールメリットを生かした仕入れ方法を進化させたいと考えてもいます」。
世の中は常に動いている、昨日と今日は、目に見えないほどの小さな違いであろうとも同じではない。こうした小さな違いが積み重なって、気が付いたときには大きな違いになっている。だから望月氏は、こう語る。
「今のビジネスを今の世の中に合わせてブラッシュアップが必要だ。モノの価格があがるのであれば、お客さまに値上げに見合った満足できるサービスを提供すること、そして、働く人の給料にきちんと反映させていかなければいけない」と……。そして最後に、こう締めくくった。
「飲食業はやりがいのある仕事です。なぜなら、何かやったことの反応がダイレクトに感じられるからですし、ビジネスとしても深いものがあるからです」。

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