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第360回 株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏
update 13/05/07
株式会社YUNARI
小宮一哲氏
株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏
生年月日 1976年9月10日
プロフィール 東京都生まれ。生まれてすぐ父の転勤で、四国の香川高松に移り住み、小学1年生まで過ごす。小学校に上がると同時に西東京市に引っ越し、18歳まではそちらで過ごしている。いったん高校に進んだが、夏休み前までに登校したのはわずか3日間で中退する。その後、仮設資材関係のプレハブ会社に就職したものの、一念発起し単身オーストラリアに旅立つ。帰国後、短期大学に進学し、4年制大学にも編入。「ファーストリテーリング」に就職し、2年で退職。セコムに転職したのち28歳で独立開業。8坪9席のつけ麺店「つけめん TETSU」を千駄木にオープン。現在、14店舗。マスコミにも度々取り上げられている。いまもっとも注目株の経営者だ。
主な業態 「つけめんTETSU」「江戸前煮干中華そば きみはん」「鶏と魚だしのつけめん哲」 「濃厚博多豚骨 たかくら」「炒飯と酸辣湯麺の店 『キンシャリ屋』」
企業HP http://www.tetsu102.com/

プロ野球選手になりたかった頃の話。

7時には家族全員が食卓を囲む。これが小宮家の日課だった。大手鉄鋼会社に勤めていた父は、厳格で、時間にも融通がきかなかった。クルマで出かけるにしても、少しでも時間に遅れるとおいて行かれるようなこともあったそうだ。
小宮家は、父と母と小宮と、3歳離れた姉の4人家族。小宮が生まれてすぐ香川県に移り住み、小学校に上がるまでそちらで暮らしている。父は厳格だが、家族は毎日、食卓を囲むような和やかな一家だったに違いない。
父は大手企業に勤めていただけに転勤もあったが、旨い具合に小学校に上がると同時に西東京市に引っ越すことができた。そから18歳になるまで、西東京市は小宮のホームグラウンドになった。
当時の小宮の夢を聞いてみると「プロ野球選手」という答えが返ってきた。一方で、早稲田や慶應のラグビー部のジャージに憧れ、中学受験に果敢に挑戦している。

高校進学、登校したのは3日のみ。

ラグビーをやりたかったが、中学受験に失敗し、進んだ公立中学にはラグビー部がなかったため、基礎体力を付けようと水泳部に入る。学力は優秀で学年では10番以内をキープしている。
しかし、徐々に勉強より、スポーツより、みんなでツルむことが楽しくなった。小学校の頃から優秀な成績はおさめたが、ケンカもめっぽう強かった。中学でも、ケンカは負け知らず。いつのまにか、花形選手のような存在になっていた。中3で、バイクを買うためにアルバイトを開始。母にはバレていたが、バイクを乗り回したりもした。
勉強はしていなかったが、学力には自信があったからだろう。
高校受験では、リベンジとばかりに早稲田、慶應を受けたが、それほど甘くなかった。それでも偏差値60以上のある私立高校に合格し、そちらに進んだが、登校したのは合計3日。夏には、退学届を提出した。
はちゃめちゃな行動と言えなくもないが、小宮にすれば行ってみてはじめて、高校に進んだことが意味のないことのように思えたのだろう。周りの生徒たちとも、馬が合わなかった。「中途半端に賢い奴ばっかりだった」と振り返っている。
学校を離れれば、自由の身である。それは自由であると同時に自律を余儀なくされることである。さて、小宮はこれからどんな人生を歩んでいくのだろうか。

オーストラリアへ飛んだことと、その後。

学校を辞めた小宮は、友人のツテを頼って仮設関連のプレハブ会社に就職する。仕事はきつくなく勤務時間も長くなかった。自由になる時間があると、それをどう使うかが問われる。だが、まだ少年だ。小宮は時間を持て余してはパチンコ店に通った。そんな生活が2年つづいた。
「漠然とした不安が、あったんだと思います。でも、周りも私みたいな奴ばっかりだったので、何が不安なのかわからなかったんです。高校に残った友人たちが大学に進んだり、ちゃんと就職したりするのをみて、はじめて何を不安がっていたかわかるんです」。
「私は、小学生の頃からずっと勉強もできたし、スポーツもでき、ケンカも負けなかった。だから、どこかでみんなより上だと思っていたんです。でも、この時、取り残されていることがはっきりわかった。いつかそうなるんだろうと、たぶんそれを不安に思っていたんです。あの頃のオレはどこにいっちゃったんだろうって」。
改めて、自分の立ち位置を知ることになった。反省というより、再出発。でも、どこに向かっていいかわからない。だから、飛んだ。誰も知り合いのいないオーストラリアへ。そこでもう一度、自分を見詰め直してみたいと思ったから。
オーストラリアに行っても日本人がたくさんいた。交わるのは嫌いではなかったが、それでは意味がないように思えた。だから、日本人がいないロックハンプトンに住み、英語力も高めた。それが次の進路につながっていく。

起業を志すようになった当時の話。

帰国後、小宮はスグに大検を受け、高校卒業の資格を得て短期大学に進学する。卒業後、4年制大学に編入する。
いままでとは違った自立心旺盛な小宮が姿を現し始める。一方、この学生時代、先輩の紹介でパソコンの販売を経験している。この経験が、起業を志す理由の一つとなった。
「よく売れたんです。周りにも認められました。お客さん相手にモノを売る仕事が、楽しいと思うようになってきたんです」。
直接、お客様の顔が見られて、お金が目の前で動いていく。そういう商売をやっていきたくなった。
「でも、そうそう大きな投資はできない。ラーメンなら、と、その時すでにラーメン店を開業することを思い描いていました」。失敗するなら30歳までと決めていた。まだまだ十分、時間はあった。
一方、この時、ラーメン店と思ったのには、もう一つ理由がある。単純にラーメンが好きだったのである。「食べるだけじゃなく、食べた後自分で作ってみる、そういう趣味もあったんです。だから、おいしいラーメンならその時からつくることができたんです」。

独立、開業までの回り道。

ユニクロのフリースが大ヒットしたのはいつ頃だったろうか。小宮の話によれば彼が大学を卒業する1年前とのこととなる。大学を卒業した小宮は、30歳までいろいろと失敗し、その経験をもとに起業しようと思っていた。だから、当時、もっとも成長していた企業の一社である「ファーストリテーリング」に応募する。
「人気企業だったので、まずダメだろうと思っていたんです。その分、大胆なことも平気で口にすることができました」。
「1年目は食べさせてもらいますが、2年目からは私が会社を食べさせられるようになります」。この一言が面接官に響いたのか、見事、難関を潜り抜けた。
「同じ新卒でも年を食っていましたから、それが印象に残ったのかもしれません。ただ、食わすといった以上、いい加減な仕事はできません。最初から、残業、残業の連続で、給料は同期でナンバー1になりました(笑)」。
同期は200人いたが、そのなかでも注目されるようになる。しかし、もともと骨を埋める気はない。2年後、学ぶことはすべて学んだとユニクロを飛び出した。
いよいよ具体的にラーメン店開業の準備に入った。アルバイトを始め、物件探しにも精をだした。だが、当時、付き合っていた女性が妊娠。起業どころの話ではなくなった。
「責任はとらないといけない。それで、セコムに転職したんです」。
起業の志を捨てる。それも、縁。責任を取るのがいちばん大事だと思ったから。
ところが、就職したとたん、またもやトップセールスを記録する。
周囲はもちろんだが、小宮本人も驚いた。パソコンの販売をしていた時もそうだが、周りが驚く数字をなんなくクリアしてみせる。
普通であれば、いい成績を残して退職に舵を切る人は少ない。実際、小宮は関東で表彰もされている。だが、小宮は、退職を決意した。
いま流にいえば、「もっている」男なのだと自ら気づいたからだ。
再度、起業を追いかける。就職して、わずか3ヵ月。奥様のおなかは確実に大きくなっていた。

TETSU開業…だが。

独学は何も悪いことではない。旨いか、不味いか。消費者は正直だ。逆にいえば、旨ければ、それでよし。ただし、これが素人の発想ということに気付かなかった。
28歳、セコムを退職し、ラーメン店を開業した時のことである。居抜き店舗をチョイスした。起業のために蓄財はしていたものの、なけなしの投資金額は〆て500万円である。贅沢はいえなかった。
とはいえ、居抜きと言えば元の店舗が失敗しているケースが良くある。投資を抑えられても当然、不安が残る。その点、小宮は割り切ってきた。
「近くに、繁盛しているラーメン店があったんです。だから、ラーメン人口は間違いなくいる、と思ったんです」。なるほどそういう見方もある。ただ、そのためには、味なり、サービスなりで勝つ自信がなければならない。独学で作り上げたラーメンだが、負けない自信はあったのだろう。ラーメン通の自分が旨いと思うのだから、みんなそう思うはずだ。
最初から「つけ麺」で勝負した。8坪9席の「つけめんTETSU」千駄木店がオープンする。長蛇の列が小宮の目には映っていた。1日100杯。最低これぐらいはいけるだろうと、皮算用していた。
ところが…。
「1杯だけなら、旨いラーメンはできるんです。でも、それじゃだめ。そのことに気づいていなかったんです。おなじクオリティで、何杯ものラーメンをつくる、そういうトレーニングはしてこなかったもんですから(笑)」。ドタバタ劇が始まった。最初だけ客はついたが、すぐに誰も来なくなってしまう。
「1日100杯どころから、せいぜい20杯。8月にオープンしてから5ヵ月で、その年の年商は、たったの280万円です」。
月に直せば平均56万円。1日2万円にもみたない。数ヵ月で、100万円の借金ができてしまった。

試作と思索の繰り返しで、究極の「つけ麺」誕生。

小宮の本領はそこから発揮される。逃げ出したら笑い者になる。それは、かつての自分に戻ること。オーストラリアに旅立ち、歩き出した第二の人生が、無駄になることでもあった。だから、ふんばりつづけた。
ようやく、希望の光がみえたのは、雪がさんさんと降りしきる日だった。「雪にもかかわらず、お客様が列をつくってくださっているのが店のなかからも見えたんです」。ようやく認められた、とそう思った。
開業して半年。成功する者が決まって持っている「あきらめない心」が、一つの結果を招いた。しかし、まだ有頂天になるのは早すぎるといさめた。一方で、行列ができる「つけ麺店」と、マスコミが騒ぎ始めた。列が、列を作るようになる。
「つけめんTETSU」がほんとうの意味で世にデビューしたのは、この時だろう。
以下は「つけめんTETSU」の実績の一つである。
<ラーメン of the year TOKYO1週間>
06年 つけめん部門 優秀賞/07年 つけめん部門 優秀賞/08年 つけめん部門 最優秀賞/09年 つけめん部門 優秀賞/10年 つけめん部門 優秀賞
<食楽ラーメンランキング>
09年 つけめん部門 第1位/10年 つけめん部門 第2位

今後の話。

最後に、これからについても話を伺った。国内では年間10店舗の出店を予定しているという。すでに開業している店とあわせ、20店舗を超えるようになる。その一方で海外への進出も考えている。とはいえ、ただ金儲けを狙っているわけではない。
「私の第二の人生の出発はオーストラリアから始まりました。オーストラリアに行って、オーストラリアが好きになるんじゃなく、改めて日本って国が好きになったんです。私が海外に出店を行うときには、この日本のおもてなしというか、文化をきっちり広められるようにしていきたいと思っているんです」。
実は、シンガポールに会社がある。とはいえ、こちらからスタートするわけではなさそうだ。「スタッフのなかにも海外に行きたいっていう奴がいるんです。そういう思いもかなえてあげたい。だから、私は言っているんです。自分で行きたい国を探して来い、と。そういう好きで行きたい国で勝負できたら素敵でしょ」。
小宮は、そういってにっこりと笑った。
もう、自信たっぷりの経営者の顔になっている。

思い出のアルバム
 

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