僕は生菓子屋の息子として育ちました。だけど将来その店を継ごうというのはなかったですね。卒業文集では動物園の飼育係になりたいと書いていたくらいですから。ただ僕もその事は覚えてなくて、その時の思いつきで書いたと思うんですけどね(笑)

18歳の時、格好良さに憧れてバーテンダーを始めました。実際始めてみると、嫌ってほど女の子にモテましたね(笑)もちろん、そういう事以外でも仕事は楽しかったです。お客様と仲良くなって、また来てくれたりすると嬉しかったですし、他の店からスカウトがあって移動した時でも、今までのお客様が新しい店にわざわざ来てくれました。そうなるとお客様を呼べるって事で給料も上がりましたよ。
 僕にとって接客は、遊んでいるのと同じように楽しかったですね。25歳位の時には、3?5倍くらいに給料が上がっていましたし、車を頂いた事もあったんですよ。

僕は26歳の時に独立して、栄5丁目にバーを作りました。最初から並ぶほどお客様が来ていましたね。お金の計算する暇が無いほど忙しかったので、あとで計算してみたら、オープンして3ヶ月で総額資本を回収できていました。
 とにかく夢中でやっていましたね。その結果、2年目にもう1件。3年目にまた1件と、1年に1件のペースで順調に店舗を増やす事が出来ました。最初はバーだったけどパブやラウンジ、それにクラブもやりましたね。33歳の時には7件の店舗を運営していました。

37歳の時に、そろそろバーでは無く違う事をしようと、バーを縮小しながら居酒屋に方向転換していきました。その時に株式会社創研を設立したんです。
 株式会社創研がバーで、我楽多文庫が居酒屋。という具合です。それで、1990年には分社して、株式会社我楽多文庫を設立しました。

居酒屋に方向転換していこうとしていた当時は、居酒屋の知識なんてなかったので、1人雇ったんですけど、そいつが全然たいしたことなくて(笑)料亭の経験者を入れたんですけどね。料理はめちゃくちゃ旨い。だけど毎日職場で1升瓶を空けてしまうような人だったんですよ(笑)でも昔はそういう人が多かったですね。
 しっかりした料亭ならレールみたいのはあったんだろうけど、うちには全くなかった。自分で仕入れに行って、夜はバーもやって、居酒屋もやって。常に全力でやっていましたね。そして序々にバーの方は社員にのれんわけしていったんです。

還暦を迎えた事によって、現在は代表取締役会長としてサポート役にまわっています。しかし、経営指針で掲げているような事。例えば、会社は社長のモノではなく、社員のモノ。そして、お店は社員のモノではなく、お客様のモノ。そういう根本にあるところは、今後も守り続けて欲しいですね。