1943年神奈川県に生まれる。
上智大学経済学部卒。ハーバード大学経営大学院AMP卒。
大日本印刷を経て1970年、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下KFCJ)の設立メンバーとして同社に入社。
直営第1号店の店長を勤める。1971年取締役営業部長、1973年代表取締役常務、1978年代表取締役副社長を経て1984年に代表取締役社長に就任。
以後18年間KFCJのマネジメントを統括し、業界オンリーワンの地位を築き上げた。
1979年ケンタッキー・フライド・チキン・インターナショナル・インク(KFC I)バイス・プレジデント、1986年KFCIシニア・バイス・プレジデントに就任し、韓国・台湾にKFCをオープン。
外食産業ジェフ厚生年金基金理事長、社団法人日本フードサービス協会会長、米国ナショナル・レストラン・アソシエーション(NRA)インターナショナル・ディレクターを歴任。三菱商事褐レ問、KFCJ特別顧問を歴任。
2002年(株)コムサネットの代表取締役に就任。2003年4月藍綬褒章受賞。2003年10月(株)ジェーシ・フーズネットと(株)コムサネット合併に伴い(株)ジェーシー・コムサ会長に就任。2007年6月潟Wェーシー・コムサ代表取締役CEO就任。
上智大学経済学部卒。ハーバード大学経営大学院AMP卒。
大日本印刷を経て1970年、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下KFCJ)の設立メンバーとして同社に入社。
直営第1号店の店長を勤める。1971年取締役営業部長、1973年代表取締役常務、1978年代表取締役副社長を経て1984年に代表取締役社長に就任。
以後18年間KFCJのマネジメントを統括し、業界オンリーワンの地位を築き上げた。
1979年ケンタッキー・フライド・チキン・インターナショナル・インク(KFC I)バイス・プレジデント、1986年KFCIシニア・バイス・プレジデントに就任し、韓国・台湾にKFCをオープン。
外食産業ジェフ厚生年金基金理事長、社団法人日本フードサービス協会会長、米国ナショナル・レストラン・アソシエーション(NRA)インターナショナル・ディレクターを歴任。三菱商事褐レ問、KFCJ特別顧問を歴任。
2002年(株)コムサネットの代表取締役に就任。2003年4月藍綬褒章受賞。2003年10月(株)ジェーシ・フーズネットと(株)コムサネット合併に伴い(株)ジェーシー・コムサ会長に就任。2007年6月潟Wェーシー・コムサ代表取締役CEO就任。
いままでバラバラだったいくつもの出来事が、まるで最初から決められていたように、ひとつの線になり、つながる。万博終了後、フランクフルト駐在員の打診を受けた大河原だったが、それを断り、まだまだ水商売としか思われていなかった飲食業に進む。そう、前述のロイ・ウエストンに請われ、日本ケンタッキー・フライド・チキンの設立に参加するのである。劣等感を持ちながらも、現場力を養ってきた人間と、海外からやってきたフードビジネスが、立ち上げの、もっともベンチャースピリッツが必要な、濃厚な段階で出会った。
当初、マーケティング部門にと請われたが、大河原は、「店長をさせてほしい」と答えている。将来、独立するには、そちらのほうが近道だと思ったからだ。結婚式上でのアルバイトで、サービス業の経験があったことも、自信につながったのかもしれない。
1970年7月4日、三菱商事株(株)とケンタッキーフライドチキン・コーポレーション(米国)の折半出資により日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社が正式に設立する。
同年11月21日。名古屋市のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内に第一号店がオープンする。店長はもちろん大河原である。
11月1日。オープンを控えた店舗を視察にいったときのことだ。大河原は唖然とした。「まるでなにもできていないんです。スタッフも私以外に副店長が決まっているだけで」。途方に暮れるとはこのことである。「ともかくスタッフを揃えなければと名古屋の地下街に行って、若い子に声をかけましたが、誰も見向きもしてくれないんです」。
オープンの日は決まっている。このままでは、店舗はできても店を開くことはできない。近くの調理師専門学校にまなじりを決して出かけていくことになる。「就職部に行きましてね。ぜひ、外食産業を学生たちにプレゼンテーションさせてほしいと」。もちろんアルバイターたちを探すのが狙いである。プレゼンが終わり、まっさきに詳細を聞きに来た男子学生がいた。「その学生を口説きましてね。『君の目は輝いている』なんていいながら。結局、その子が、当日までにアルバイトを揃えてくれたんです」。大河原のピンチを助けたその男子学生は、現在日本ケンタッキー・フライド・チキンで専務を務める中川達司氏なのである。
ともかくそういう風にして1号店はオープンするが、まったく利益が上がらなかった。後から考えれば名古屋を1号店の出店場所に選んだのが間違いだった。今では笑い話になるが、オープンの時間が迫ってくるなかで、店の前には行列ができたそうだ。大河原は喜び、商品を大量に作り始める。開店と同時にオーダーが押し寄せてくると予測したからだ。しかし、実際にテープカットが行われると、店の前に集まった客たちはオープン祝いに寄せられた花を次々にとって返るだけだったのである。クリスマスには決まって行列ができる「ケンタッキー」で最初に求められたのは、開店祝いの花ばかり、だったのである。
1号店の出足は失敗したものの、矢継ぎ早に出店は続く。2号店は大阪の枚方に、3号店も大阪の東住吉区に出店した。日本マクドナルドが銀座の一等地に初出店したことと比較すれば、雲泥の差である。目抜き通りを避け、路地裏に出店するようなものだ。2号店、3号店もやはり芳しくない。累積赤字が貯まっていく。三菱商事からの出向者は戻り、中途採用した人間たちもまた去っていく。
当初、マーケティング部門にと請われたが、大河原は、「店長をさせてほしい」と答えている。将来、独立するには、そちらのほうが近道だと思ったからだ。結婚式上でのアルバイトで、サービス業の経験があったことも、自信につながったのかもしれない。
1970年7月4日、三菱商事株(株)とケンタッキーフライドチキン・コーポレーション(米国)の折半出資により日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社が正式に設立する。
同年11月21日。名古屋市のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内に第一号店がオープンする。店長はもちろん大河原である。
11月1日。オープンを控えた店舗を視察にいったときのことだ。大河原は唖然とした。「まるでなにもできていないんです。スタッフも私以外に副店長が決まっているだけで」。途方に暮れるとはこのことである。「ともかくスタッフを揃えなければと名古屋の地下街に行って、若い子に声をかけましたが、誰も見向きもしてくれないんです」。
オープンの日は決まっている。このままでは、店舗はできても店を開くことはできない。近くの調理師専門学校にまなじりを決して出かけていくことになる。「就職部に行きましてね。ぜひ、外食産業を学生たちにプレゼンテーションさせてほしいと」。もちろんアルバイターたちを探すのが狙いである。プレゼンが終わり、まっさきに詳細を聞きに来た男子学生がいた。「その学生を口説きましてね。『君の目は輝いている』なんていいながら。結局、その子が、当日までにアルバイトを揃えてくれたんです」。大河原のピンチを助けたその男子学生は、現在日本ケンタッキー・フライド・チキンで専務を務める中川達司氏なのである。
ともかくそういう風にして1号店はオープンするが、まったく利益が上がらなかった。後から考えれば名古屋を1号店の出店場所に選んだのが間違いだった。今では笑い話になるが、オープンの時間が迫ってくるなかで、店の前には行列ができたそうだ。大河原は喜び、商品を大量に作り始める。開店と同時にオーダーが押し寄せてくると予測したからだ。しかし、実際にテープカットが行われると、店の前に集まった客たちはオープン祝いに寄せられた花を次々にとって返るだけだったのである。クリスマスには決まって行列ができる「ケンタッキー」で最初に求められたのは、開店祝いの花ばかり、だったのである。
1号店の出足は失敗したものの、矢継ぎ早に出店は続く。2号店は大阪の枚方に、3号店も大阪の東住吉区に出店した。日本マクドナルドが銀座の一等地に初出店したことと比較すれば、雲泥の差である。目抜き通りを避け、路地裏に出店するようなものだ。2号店、3号店もやはり芳しくない。累積赤字が貯まっていく。三菱商事からの出向者は戻り、中途採用した人間たちもまた去っていく。
ハーベスター・八雲20周年。八雲町の皆様と。
2008年(65歳)
2008年(65歳)