日本ケンタッキー・フライド・チキンの歴史とこれからの若者へのメッセージ
日本ケンタッキー・フライド・チキンと師である大河原氏との出会い。

教壇から見れば、階段室の最後尾。そこから質問が次々に降ってきた。向かってくる奴だな、というのが現ジェーシー・コムサ社長、当時、ケンタッキーフライドチキン(以下:KFC)の日本1号店店長、大河原氏が最初に抱いた印象だった。
1970年11月、大河原氏は、間近に迫った1号店(名古屋市のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内)オープンに向け、アルバイト集めに奔走していた。苦肉の策として訪れたのが市内にある栄養専門学校。就職を控えた学生たちに「日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下:日本KFC)」という飲食事業を行う会社をプレゼンテーションさせて欲しいと頼み込み、階段教室に学生達を集めてもらったのである。
  質疑応答を終え、興味がある学生との個別相談会に移行したとき、まっさきに訪ねてきた学生を見て、大河原氏はいささか戸惑った。やってきたのは、先ほど食ってかかってきた大柄な学生だったからである。名前は中川達司。のちに日本KFCの専務になる人物である。

中川はこのときのことを次のように語っている。「東京からやってきた人間がうまいことだけ言っていると思い、質問攻めにしたんです」。中川にはもともと親分肌のようなところがある。このときも学校を代表して「舐められて、たまるか」という思いがあったのだろう。いずれにしても、大河原氏が感じたように多少の反感を抱いていたようだ。だが、膝詰めで話すうち、反感が好感に変わる。
「君の眼には光がある」、大河原氏はそういった。実は、この言葉は、日本でKFC事業を行うために来日したアメリカ側の代表だったロイ・ウエストン氏(後に日本KFC名誉会長)が大河原氏をリクルートするときに投げかけた文句と同じだった。「とにかく1号店のオープンが迫っていて、アルバイトを採用する必要があったんです。だから、口説き落とそうと思ったのも事実」と大河原氏は語っている。
中川は、その一言に感激し、自分はもちろんのこと、数日後、アルバイト希望者を数人連れてきた。もし、このとき大河原氏と中川が出会わなければ、ケンタッキー1号店は、計画通りオープンの日を迎えられたどうかわからない。

クロスαvol6 プロフィール
中川達司氏

株式会社日本ケンタッキー・フライド・チキン
取締役執行役員専務 中川達司氏

1950年4月、愛知県新城市に生まれる。
父は公務員、母は教員。小学生の頃に父の転勤に伴い、豊橋市に移転。そこでわんぱくな少年期を過ごすことになる。
中学はバレーで県大会に。高校はハンドボールで県大会に出場している。両親の勧めに従わず栄養士の専門学校に進学。将来はコックというのが当時の夢だった。
就職を控えた2年の11月。会社説明会で日本のケンタッキー第1号店長、大河原氏と出会い、1号店の開店に尽力する。翌年、5月正式に社員となり、東京で1号店となる青山店などを任される。
後に社長になる大河原氏の懐刀として、獅子奮迅の活躍を見せていく。
2006年、取締役執行役員専務に就く。
店舗数は11月30日現在1,136店(直営354店、フランチャイズ店782店)。
40年間かけ、ケンタッキーが、中川が、辿り着いた数字でもある。