1950年、中川は、公務員の父と教師の母との間に生まれる。1950年といえば、戦後間もない頃だ。幼稚園まで愛知県の新城市で育ち、その後、父の転勤に伴い豊橋市に移り住んでいる。「両親が忙しかったため育ての親は祖母だった」と中川はいう。学業はもちろんだがスポーツも万能で、中学時代には、バレーで県大会に出場し、高校に上がる頃には、「スカウトが来るぐらいの選手だった」という。ところが、高校に入るとバレー部を辞め、ハンドボールに熱中。こちらでも県大会にまで出場している。スポーツに熱中するあまり、学業がおろそかになり、徐々に学力は低下していったそうだ。
176センチ。同年代と比較すれば大柄なほうだろう。子どもの頃から背丈はあったという。何をしてもエース級だったのは、背の高さも無関係ではない。
いまの中川は、見た目もそうだが、性格的にも豪放磊落に思える。だが子どもの頃は口下手で、進んで会話もしない、「人見知りするタイプだった」そうだ。
それが影響したかどうかわからないが、高校時代の中川は、「コックになりたいと思っていた」という。無口な職人の世界に憧れていたのだろうか。両親の勧めを断り、栄養士の専門学校に進学したのもコックになるためだった。この学校で、大河原氏と出会ったことはすでに書いた。
もし、両親の勧め通り大学に進学していれば、いまの中川はもちろんない。またケンタッキーに入社する際、父から勘当と言われてまで、その道を進まなかったとしたら、ケンタッキーそのものがどうなっていたかわからない。それほどケンタッキーにとって中川は、大きな存在だったという気がしてならない。
一つは祖母に育てられたことが大きかったのではないだろうか。公務員、また教師という安定した職業に就いていた両親から与えられた影響もまた少なからずあったような気がする。というのも、ケンタッキーは、カーネル・サンダース氏によって開発された業態ではあるが、たとえば大手のハンバーガーショップのように、欧米の文化を持ち込んだというよりも、本来、日本にあった「食文化」を継承しているようにも思えてならないからだ。「先進性」というよりも、「愚直」という言葉のほうが、この会社には似合っている。中川もまた愚直な人なのである。
有名な話であるが、ケンタッキーは、国産の鶏にこだわる。くさみのないハーブ鶏まで自社で開発するという徹底ぶりだ。ケンタッキーのホームページに掲載されているIRのページをみると、国産にこだわっているということがわかる。これ一つとっても日本の食文化を継承していることになるのではないだろうか。
中川はいま、「ケンタッキー」の理念をわかりやすく表現している。「私たちはあくまで『フライドチキン屋』だ」と。設立以来、この根幹はぶれたことがない。このぶれない会社の基礎を作ったことこそ、愚直な中川の最大の功績であると言えば、言い過ぎになってしまうのだろうか。話を進めよう。
株式会社日本ケンタッキー・フライド・チキン
取締役執行役員専務 中川達司氏
父は公務員、母は教員。小学生の頃に父の転勤に伴い、豊橋市に移転。そこでわんぱくな少年期を過ごすことになる。
中学はバレーで県大会に。高校はハンドボールで県大会に出場している。両親の勧めに従わず栄養士の専門学校に進学。将来はコックというのが当時の夢だった。
就職を控えた2年の11月。会社説明会で日本のケンタッキー第1号店長、大河原氏と出会い、1号店の開店に尽力する。翌年、5月正式に社員となり、東京で1号店となる青山店などを任される。
後に社長になる大河原氏の懐刀として、獅子奮迅の活躍を見せていく。
2006年、取締役執行役員専務に就く。
店舗数は11月30日現在1,136店(直営354店、フランチャイズ店782店)。
40年間かけ、ケンタッキーが、中川が、辿り着いた数字でもある。