大河原氏が奔走して、開店に漕ぎつけた1号店だったが、結局、不発に終わってしまう。「月を追うごとに業績が悪化していくんです。でも、僕たちからすれば、毎日食べても飽きないほど旨いし、鶏肉だから高タンパク。当時の日本人は、そういうのを求めていたから、いずれ業績は回復すると信じていました。それが支えにもなったんです」と苦戦の日々を振り返る。しかし、業績が回復する気配はない。しかも、店長の大河原氏は、アメリカ研修に行ってしまう。思いとは裏腹に、結果は空回りするばかりだ。
もう一つ、中川たちには問題があった。就職のことである。中川自身は学校から、いずれ教師にという誘いがあり、内定が決まっていた。しかし、いっしょに連れてきたアルバイトたちは、ケンタッキーへの就職が前提だった。ところが業績が芳しくなく、約束した当の本人がアメリカに行ってしまい、交渉しようにも相手がわからない。中川は、仲間を代表して大河原氏宛に就職の件を問う手紙を書いた。返ってきた返事は、「大丈夫、入社してもらうから」だった。
このとき大河原氏は、渡米し、改めて「ケンタッキーの理念」に触れ、自信を取り戻していた頃である。中川は、仲間に大河原氏の言葉を伝えた。同時に、自身の気持ちも急速に「ケンタッキーへの就職」に傾いていくのである。
結局、学校からのオファーは断ることになる。外食といえばすべてが水商売といわれた頃だ。両親からも痛烈に反対され、父親からは勘当とまで言われている。それでも、中川にはいずれ日本にもケンタキーが広がっていくという確信があり、任された仕事も強烈におもしろかったということもあって、反対を押し切っても、この道に進むという覚悟が出来上がっていた。
就職の心配はなくなったものの、業績不振から先が見えない。1号店は、やがて閉店に追い込まれる。大志を抱いた中川にすれば、欲求不満に終わってしまったことだろう。
この店のほかにもケンタッキーはほぼ同時に大阪にも2店舗出店している。2号店の東住吉店と3号店の枚方店である。いずれもドライブインのスタイルだ。東住吉店は健闘したものの、枚方店は1号店同様に苦戦を強いられた。「大型ショッピングセンターが出来始めた頃で、3店とも、それにくっつくように駐車場に独立店舗として出店したんですが、よろしくない。スタイルを変えてみてはどうか、ということで、初めて路面店で勝負をかけることになったんです」。それが神戸三ノ宮「トーアロード」に誕生した4号店だった。
実はこの時、事業の存続自体が危ぶまれていた。「累積赤字が貯まっていく一方で、親会社である三菱商事からの出向者は戻りはじめ、中途採用した人間たちも次々に去っていった」と事情を知る大河原氏は語っている。アメリカから帰国した大河原氏は、事業撤退を意識する経営陣に、もう1店舗だけやらせてくれと、直訴した。後がない状態で、生まれた4号店でもあったわけだ。
ところが、この店が、予想を超え大ヒットする。「もともと神戸という外国人も多い立地が幸いした。芦屋からも裕福な方がたくさんいらして、列をつくってくださった。神戸という土地柄もあって、新しいものにも敏感に反応してくださったんでしょうね」と中川。この4号店の成功でケンタッキーには翼が生え、日本でも力強く羽ばたくきっかけをつかんだのである。同時に、中川は大河原氏の懐刀になっていく。
株式会社日本ケンタッキー・フライド・チキン
取締役執行役員専務 中川達司氏
父は公務員、母は教員。小学生の頃に父の転勤に伴い、豊橋市に移転。そこでわんぱくな少年期を過ごすことになる。
中学はバレーで県大会に。高校はハンドボールで県大会に出場している。両親の勧めに従わず栄養士の専門学校に進学。将来はコックというのが当時の夢だった。
就職を控えた2年の11月。会社説明会で日本のケンタッキー第1号店長、大河原氏と出会い、1号店の開店に尽力する。翌年、5月正式に社員となり、東京で1号店となる青山店などを任される。
後に社長になる大河原氏の懐刀として、獅子奮迅の活躍を見せていく。
2006年、取締役執行役員専務に就く。
店舗数は11月30日現在1,136店(直営354店、フランチャイズ店782店)。
40年間かけ、ケンタッキーが、中川が、辿り着いた数字でもある。