日本ケンタッキー・フライド・チキンの歴史とこれからの若者へのメッセージ
ケンタッキーを育てた中川から、いまの若者たちへのメッセージとは。

大河原氏と中川。名古屋にある、ある専門学校で偶然出会った2人が、ケンタッキーを育て、日本の食文化の、新たな一面を切り開いていくことになる。大河原氏が頭とすれば、中川は手足である。しかも、その手足には、頭脳も組み込まれていた。
いまの私たちには、「クリスマスにケンタッキー」というのが定番の一つになっている。それを仕掛けたのが大河原氏である。「サラダとアイスとチキンをひとつにして、売り出そう」、大河原氏はそう言い、当時、マーケティング部長だった中川が、冷たいアイスと出来立ての熱いチキン、そしてサラダを一つのセットしたバケット、いわゆるパーティーバレルを作りあげた。ちなみに、このパッケージは、中川の名で実用新案に登録されている。
中川は今年(2010年)で60歳になる。40年間をケンタッキーと共に歩んできたことになる。いま、もう一度若い頃からスタートするとすれば、どうしますか? という質問を投げかけてみた。すると「勉強するだろうな」という答えが返ってきた。どちらがいいかは、分からない。中川がいう勉強とは、純粋な学問をさすのだろう。しかし、中川がケンタッキーで学んできたことは、机上の学問を超えた実践学だったのではなかだろうか。
後2つ伺ってみた。一つは、いまの若い経営者に対して、もう一つは、いまの若者に対してのメッセージは何かという問いである。中川はこう答えている。
前者に対しては、「いまの若い経営者は、短期決戦というか、成功したら、そのビジネスモデルを売るというようなことをしますよね。お金儲けには、効率的なのかもしれませんが、働いている人のことも考えないといけないと思うんです。それでは、お金儲けのお手本にはなれても、人を幸せにする、また日本をより良くしていくようなモデルにはなれないと思うんですよ。やっぱり社会に貢献するような、育ててもらった社会に恩返しするようなお手本になって欲しいと思いますね」と。
後者に対しては「ともかく、結果を出すことですね。給料とか、ポストを手に入れるのは、それからでも十分なんです。つまり追いかけるものを間違わないこと。人は経験によって作られていくものですから、お金ではなく、仕事によってこそ作り、磨かれていくんです。ですから与えられた仕事を全力でこなす、それが大事なんじゃないでしょうか」ということだった。

クロスαvol6 プロフィール
中川達司氏

株式会社日本ケンタッキー・フライド・チキン
取締役執行役員専務 中川達司氏

1950年4月、愛知県新城市に生まれる。
父は公務員、母は教員。小学生の頃に父の転勤に伴い、豊橋市に移転。そこでわんぱくな少年期を過ごすことになる。
中学はバレーで県大会に。高校はハンドボールで県大会に出場している。両親の勧めに従わず栄養士の専門学校に進学。将来はコックというのが当時の夢だった。
就職を控えた2年の11月。会社説明会で日本のケンタッキー第1号店長、大河原氏と出会い、1号店の開店に尽力する。翌年、5月正式に社員となり、東京で1号店となる青山店などを任される。
後に社長になる大河原氏の懐刀として、獅子奮迅の活躍を見せていく。
2006年、取締役執行役員専務に就く。
店舗数は11月30日現在1,136店(直営354店、フランチャイズ店782店)。
40年間かけ、ケンタッキーが、中川が、辿り着いた数字でもある。