神戸三ノ宮のトーアロードで大成功を収めたケンタッキーは、いよいよ東京に進出する。南青山に5号店となる青山店を出店したのだ。もちろん、この店に送り込まれたのは中川である。その後、中川は、下北沢、原宿と、新店舗の立ち上げを任されていく。フランチャズもスタートし、中川は、トレーニングを任され、トレーニングスーパーバイザーとしても手腕を発揮する。業績が認められ、海外研修にも参加することができた。
「当時はまだ海外に行くというのは、高嶺の花で、親戚一同見送りにくるというような時代だったんです。そんなときに22歳の若造をアメリカに行かせてくれたんですね。そりゃ夢が膨らみます。大河原さんにもよく言われたんですが、業績を上げて、いつかタキシードを着てパーティに参加しようぜって」。そういうビジョンを語りあいながら、全力で日々の仕事に取り組んでいった。
飲食業には高い壁がない。誰もが参加できる業種である。しかし、発展させることは、簡単ではない。大きなビジョンを掲げ、到達点に向かって全力で突っ走ることが必要である。ケンタッキーの場合、突っ走るためのエンジンが、中川だった。
「業績を一段とアップさせる手立てはないか」。出店を繰り返すケンタキーだったが、どの店舗もうまくいくわけではない。全社の業績を安定させるためにも、好業績を維持する中川の店にも一段の売上アップが求められた。24時間営業に中川が踏み切った背景には、そうした会社から、言い換えれば大河原氏からの要請があったからだ。バイトの割り振りだけでたいへんになる。それでも中川は、24時間営業という当時でいえば、画期的な戦略を組み立て、実行していくことになる。
この24時間営業という目新しさもあり、認知度がアップしていく。売上アップ以外の副産物もついてくるのだ。「年末のテレビ番組に、コマをあげるからと言われたり、ほかにも、出てくれるなら宣伝してもいいよ、という局があったりして。チキンも見せていいし、チキンをセットにしたバケットを見せてもいいよって」。かつて人見知りするタイプだった中川は、ためらうことなく出演し、カメラのまえで、元気よく「すごくおいしいですからぜひ、きてください」と、宣伝した。
そういうこともあって、南青山店の、売上は2倍になった。
「ミスタードーナツ」「マクドナルド」にならび「ケンタッキー」もファストフードの代表選手と言われるようになるのは、この頃からである。
株式会社日本ケンタッキー・フライド・チキン
取締役執行役員専務 中川達司氏
父は公務員、母は教員。小学生の頃に父の転勤に伴い、豊橋市に移転。そこでわんぱくな少年期を過ごすことになる。
中学はバレーで県大会に。高校はハンドボールで県大会に出場している。両親の勧めに従わず栄養士の専門学校に進学。将来はコックというのが当時の夢だった。
就職を控えた2年の11月。会社説明会で日本のケンタッキー第1号店長、大河原氏と出会い、1号店の開店に尽力する。翌年、5月正式に社員となり、東京で1号店となる青山店などを任される。
後に社長になる大河原氏の懐刀として、獅子奮迅の活躍を見せていく。
2006年、取締役執行役員専務に就く。
店舗数は11月30日現在1,136店(直営354店、フランチャイズ店782店)。
40年間かけ、ケンタッキーが、中川が、辿り着いた数字でもある。