クロスαvol7 青木四郎からの贈り物
クロスαvol7 INDEX クロスαvol7 青木四郎氏プロフィール クロスαvol7 青木四郎氏
株式会社「紅花」
代表取締役社長 青木四郎氏
1943年、青木家の四男として生まれる。
父、青木湯之助は、俳優・タップダンサ−から戦後、事業家に転身。
後に世界的な事業家として知られるようになる。
この父の下で育った青木は早くから、ビジネスに目覚めている。
渡米は、1961年のこと。
その後、父の片腕となり敏腕を振るう。
渡米10年後の1971年、 「GASHO OF JAPAN」」をニューヨーク郊外に出店。
市民から熱狂的に受け入れられた。
母の要請を受け、株式会社「紅花」の社長になるため、帰国、39年間の海外生活に終止符を打つ。
現在は日本で次世代の経営者づくりに取り組んでいる。
戦後の焼け野原に、レストラン「紅花」が咲く。
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さて、この若き実業家、青木四郎氏という人物を語るうえで、欠かせないのは、やはり父、青木湯之助氏の存在だろう。戦後、一代で「紅花」の基礎を築いた偉人である。

湯之助氏は、戦地には赴いていない。国内の飛行機工場で働いていたという。終戦を迎え、焼け野原になった東京に戻った湯之助氏は、日本橋に甘味喫茶を開業する。「あんみつ」や「おしるこ」がメニューである。戦後の状況下、甘いものに飢えていた人たちが、列を作った。その後、コーヒーショップを開くが、こちらも客足が途絶えない人気店になる。

当時の記憶は青木氏にもある。「父は珈琲豆を買ってきては、店で挽く。そういう機械も買ってきましてね。子どもは身体で覚えられるからと、ぼくらに挽かせていました。店は客でごったがえしているような状態でね。それを母と父が夫婦で切り盛りしていたんです」。その店は住居兼用であったそうだ。一日中、青木氏は、珈琲の香りを嗅ぎながら、喧騒な中で暮らしていたことになる。

湯之助氏が元コメディアンであり、タップダンサーであることはすでに書いた。タップダンスは、何度も映像を観て独学で学んだそうだ。サービス精神はもちろん、モダンなものに惹かれる湯之助氏の姿が浮かび上がる。コーヒーショップで、さらに成功した湯之助氏は、今度は洋食店を開く。これがレストラン「紅花」の始まりである。

レストラン「紅花」の成功の理由はなにか? 一つは、この当時、本格的な洋食レストランはわずかしかなく、来日したアメリカ人たちが、「紅花」に好んで訪れたこと。もう一つは、西洋文化に憧れた日本人たちが、洋食を口にすることで少しでもその文化に触れようとしたことが挙げられるのではないか。実際、これらの店の開業は、湯之助氏自身がアメリカに強い憧れを抱いていたことと無関係ではないようだ。