代表取締役社長 青木四郎氏
1943年、青木家の四男として生まれる。
父、青木湯之助は、俳優・タップダンサ−から戦後、事業家に転身。
後に世界的な事業家として知られるようになる。
この父の下で育った青木は早くから、ビジネスに目覚めている。
渡米は、1961年のこと。
その後、父の片腕となり敏腕を振るう。
渡米10年後の1971年、 「GASHO OF JAPAN」」をニューヨーク郊外に出店。
市民から熱狂的に受け入れられた。
母の要請を受け、株式会社「紅花」の社長になるため、帰国、39年間の海外生活に終止符を打つ。
現在は日本で次世代の経営者づくりに取り組んでいる。
ロッキー青木氏。青木家の長男であるロッキー青木氏は、のちにアメリカで大成功する人物であるが、伝説的に語られるさまざまなエピソードも、青木氏の目線から見ればいささか違ったものに見えてくる。ロッキー青木氏の華々しい活躍の裏に父、湯之助氏の存在をみるからだろう。
湯之助氏は子ども達を渡米させるために奇策を用いた。親しくしていたレスリング協会の人間に相談し、まず選手として、また随行員として子ども達をアメリカに送り出したのだ。理由は簡単で、渡米は制限されており、手段がそれほど多くなかったからである。ロッキー青木氏しかり、青木四郎氏自身もそういう風にして初めて父が憧れるアメリカの地に降り立った。それが1961年のことである。
1961年、昭和36年。いまから当時を想像するのは困難だが、日本にはまだ車も少なく、テレビも一般に普及していない時代だったことはたしかだ。長島や王が巨人軍に入団したのもこの頃である。街頭のテレビに大人たちが釘付けになった映像は、この時代を象徴している。その年に、青木氏はアメリカに渡っている。では、当時のアメリカはどうか。後に「60年代のアメリカ」と言われるように、車社会が到来し、かつてないほどの自由な雰囲気が、世間を覆っていたに違いない。
青木氏が渡米してから3年後の1964年、湯之助氏は、アメリカに渡った子ども達と協力し、ニューヨークに鉄板焼き「BENIHANA OF TOKYO」を開業した。初の海外1号店である。
どうして鉄板焼きなのか、と問うと、シンプルな答えが返ってきた。「アメリカ人は肉が好きだから、それが父の考えでした。さらに、ただ焼くだけではおもしろくない。だから、焼くときにパフォーマンスをしろと。アメリカ人は楽しいことが好きだからと、というのがその理由です」。これがアメリカ市民にうけた。
もう一つ。ロッキー青木氏の才能を掘り起こすように、湯之助氏は、彼に広告塔のような役割を与える。若き実業家を全面に出し、ニュース性を高め、アメリカ市民の関心を集めた。こちらも湯之助氏のプロデュースである。