1935年7月16日、和歌山県生まれ。
6人兄弟(男3人 女3人)の末っ子。
高校在学中に母が病に倒れ、17歳で家業のよろず屋を継ぐ。兄が戻ったこともあり、経営を兄に任せ、同志社大学に入学。
卒業後、遅れを取り戻すために飲食業と心に決め、寿司の名店で1年間修業。
1963年、大阪十三にて4坪半の寿司店「がんこ」を創業する。2年後に106席の大型寿司店を開店し、注目を浴びる。
現在は、がんこフードサービスの会長を務める傍ら、大阪「平野郷屋敷」や京都「高瀬川二条苑」、三田大原「三田の里」、和歌山「六三園」といった貴重な文化的遺産を生かす事業も行っている。
社団法人日本フードサービス協会理事、社団法人大阪外食産業協会相談役理事ほか公職を多数兼務。
「店主からは、寿司職人になるには5年はかかると言われました。ですが、1年でやる、と決めたんです」。修行先に選んだのは黒門市場にある名店だった。小嶋氏は27歳になっていた。「新聞を海苔の大きさに切って、残ったごはんとこんにゃくとで巻き寿司をつくるんです。店が終わって、先輩らがお酒を一杯やっているときにね。先輩らがわたしの様子みて笑うんです。まるで酒の肴ですな。でも、普段はぜんぜん教えてくれへん先輩でも、そういうときには本音をポロリというてくれるんですな。シャリの炊きかたも、そうです。先輩の手伝いをしました。教えてくれっていうても教えてくれませんが、手伝ってくれていると思っているから、悪い気はせえへんでしょ。最初は米を洗うだけやったのが、ガスの火の調整なんかもさせてくれるようになるんですな。で、みんながみていないところで、こっそり米を炊くんです。いま思えば、見て見ぬふりをしてくれていたんでしょうけどね」。
助けてくれるお客さまも現れた。「毎晩、フラっとやってきて、寿司を四個と銚子1本飲んで帰られるお客さんでした。その人はわたしがシャリを炊いているのを知っているから、『どや、大学で勉強するのとはわけが違うやろ』っていうてくれはるんです。まだまだやぞっていうことです。その人に認められようと必死になってがんばるんですな。ある日、今日は絶対うまくできたという日がありましてね。もう、来られるのが待ち遠しくて。でも、その日に限って店には来られたものの、話かけてくれへんのですね。もう、しびれをきらして、どうですか、っていいに行ったら、『寿司は食べてへん』いうて帰ってしまわれたんです(笑)。あのときはもうがっかりですわ」。だが、それは合格の合図だったのかもしれない。
無心になって寿司作りを覚える一方で、1年間、1日たりとも寿司抜きの日はなかったという。寿司屋にも通った。「するとね。辛い、甘いはあるものの、寿司の命であるシャリの味がまるで一定していないんです。明らかにまずい店もある。寿司酢といえば、酢と砂糖と塩を混ぜるだけなんです。たったそれだけやのに。これやから、勝負できるとも思ったんですね。まだまだ改善の余地がありますから」。
四季がくるりと一回りし、修業が終わる。屋台を譲ってやるから使うかという人もいた。いつのまにか、小嶋氏の周りに応援団のような人たちが現れてくる。真摯な人には人が集まる。だが、修業したといっても1年。小嶋氏は、どのようにして1号店開業にたどり着いたのだろうか。