クロスαvol8 外食産業の近代化に貢献した男の人生とは
クロスαvol8 INDEX クロスαvol8 小嶋淳司氏プロフィール クロスαvol7 小嶋淳司氏
小嶋淳司(こじま あつし)
1935年7月16日、和歌山県生まれ。
6人兄弟(男3人 女3人)の末っ子。
高校在学中に母が病に倒れ、17歳で家業のよろず屋を継ぐ。兄が戻ったこともあり、経営を兄に任せ、同志社大学に入学。
卒業後、遅れを取り戻すために飲食業と心に決め、寿司の名店で1年間修業。
1963年、大阪十三にて4坪半の寿司店「がんこ」を創業する。2年後に106席の大型寿司店を開店し、注目を浴びる。
現在は、がんこフードサービスの会長を務める傍ら、大阪「平野郷屋敷」や京都「高瀬川二条苑」、三田大原「三田の里」、和歌山「六三園」といった貴重な文化的遺産を生かす事業も行っている。
社団法人日本フードサービス協会理事、社団法人大阪外食産業協会相談役理事ほか公職を多数兼務。
バカ正直に生きる。

小嶋氏の人生を俯瞰すれば、「バカ正直」という一言に集約されるかもしれない。愚直であること、規律を守り、躾を大事にすること。そう母から教えられたことが、背骨のように、氏の人生を貫いている。

このときもそうだった。従業員たちに語っていた大阪一大きな店をつくるという言葉をウソにしたくなかった。笑われても、価格を示したときのように、そしてその思いにお客さまが応えてくれたように、バカ正直に生きることには値打ちがある。そうやって生きてきた。だから、ウソはつきたくなかった。

「商売を始めて1年半ぐらいですかな。2号店を出すんです。しかし、今度は1号店とはわけが違う。120坪です。資金はまるで足らなかった。2500万円に対して手元のお金を集計するとわずか250万円。残りは全部、借金に頼らざるを得ません。悩みましたな」。

だが、ここで退けば、消極的な人生になると、小嶋氏は人生最初の大きな賭けにでた。この大型店が大阪人の心をとらえ「がんこ」の名前が大阪中に知れ渡ることになる。

翌年には、持ち帰りの専門店をオープンした。「当時、最先端の業態です。2年間で、24店舗に出店しました」。順風まんぱんと思っていた矢先、暗雲がたれ込めた。

コンサルタントや会計士などの出身者を雇い入れたのが、ことの発端。「ネタはまだまだ小さくできる」「椅子を高くすれば、座り心地が悪くなり回転率が上がる」という戦略を実行するよう迫られた。小嶋氏とはまったく異なる考えだったが、経営陣に招き入れた彼らの言葉を無視できない。議論することに疲れた小嶋氏は、彼らにやらせてみることにした。失敗。結局、2店舗を残し、ほかの店舗は売却するハメになった。

商売と理論の違いはここにもあるような気がする。たしかに、ネタを小さくすれば効率は上がるだろう。椅子を高くすれば、回転率が上がるかもしれない。だが、商売はそのためだけにするのではない。「お客様に喜んでもらって、なんぼ」。それが、商売である。

少なくとも、満足したお客様は、列をつくるお客様をみて長居を決め込むことはないだろう。机上の理論には、いちばん大事な心がこもっていなかった。その大事な心とは何か。それを、店主、それぞれの生き様と言っては、考えが飛躍しすぎているだろうか。

母の姿を追いかけ、17歳で店主となり、自ら商売の鉄則を知り、大学を卒業してなお、飲食業に入る。1年の修行を経て起業し、四坪半の店のなかで、大阪一という目標を掲げる。貫かれたバカ正直な生き様。「がんこ」には、そんな創業者、小嶋氏の生き様がいまだに受け継がれている。