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第59回 株式会社 スパイスロード 代表取締役・涌井征男氏

リピーター続出の「トムヤムラーメン」を生みだした元祖・屋台風タイ料理店「ティーヌン」。関東圏で10店舗(FC含む)を展開し、年内には、海外・台北でのFC店オープンも計画している。また、ハイクラスなタイ料理店「サイアム ヘリテイジ」「サイアム セラドン」を展開するブルーセラドン株式会社も同社長が経営。涌井氏が手がけたタイ料理店は、現在37店舗に拡大している。

プロフィール

1944年生まれ、神奈川出身。28歳の時、小さな珈琲店を立ち上げる。40歳で初めて訪れたアジアの屋台文化に感銘を受け、当時、知り合ったタイ人女性(現在、タイ料理研究家として活躍する味澤ペンシーさん)との出会いから、タイ料理に特化する。店ごとに特徴のある味を提供し、顧客ごとの好みの味でもてなすことがモットー。味の均一化をしないサービスこそが、おいしさの基本だと考えている。

リンク

http://www.spiceroad.co.jp/

涌井征男氏 本社所在地/東京都新宿区高田馬場1丁目6番16号ユニオンビル2F
TEL/03-3207-3672
最初は苦手だったトムヤンクンが看板メニューに!
スパイスロード
1992年、42歳のときにタイ料理店「ティーヌン」を高田馬場に開店しました。当時、都内にはいくつかのタイ料理店がありましたが、どこも客単価3500円ぐらいの高級店ばかりで、“タイ料理=高級料理”というのが一般的なイメージでした。それに対して私の店は1皿1000円以下の値段設定で勝負。看板メニューに掲げた当店オリジナルの「トムヤムラーメン」(730円)を1杯だけ食べて帰っても大歓迎という業態で、リピーターを増やしていきました。

タイ・レストラン界の価格破壊をしたのは、私の店だと自負しております。このトムヤムラーメンは、創業20年経った今でも当店の人気メニュー。海外へのFC展開の話もあり、2013年のうちに台湾に台北店をオープンします。日本発のタイ料理店が、海外でオープンするなんて、なんともロマンのある話だと思っています。

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タイ料理三昧の20年ですが、実を申しますと、人生で初めてトムヤンクンを食べたとき、「これは人間の食べるものなのか…?」と思ったほど、口に合わないものでした。しかしながら私は人一倍好奇心が強いタイプで、こんな“変な”料理にどうして人は魅せられるのだろう、と何度も何度も食べてみて、気がついたら私もタイ料理の虜になっていたのです。

タイ料理の魅力は、日本人の私が毎日食べても飽きないこと。一皿の中に、酸味・甘味・辛味のすべてがあり、それらのバランスが絶妙に合ったときのえもいわれぬ味の広がり。これを一度味わってしまうと、また食べたくなるという、圧倒的な魅力を秘めているのです。
自分の中の“おいしさの満足感”を信じてひたすら追求
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昨年、タイ・チェンマイで、驚くほど美味い「ガパオ」にめぐり合いました。「ガパオ」とは、豚や鶏のひき肉とタイ産バジルを炒めた料理。タイではポピュラーなメニューです。ところがチェンマイの店では、ひき肉ではなく、鶏モモ肉を使っていて、そうするとまるで違う味わいなのです。タイ人も知らない、この店オリジナルの人気メニューでした。

このチェンマイ発の「特製・鶏のガパオ」をどうしても日本で再現したくて、何度もお店に通いました。タレが味の決め手になっているのは分かるけれど、その詳細が何度食べてもわからない。当然、お店の人にレシピを聞いても教えてはくれません。

何度も通っているうちに少しずつお店の人と打ち解けていき、滞在最終日には、ペットボトル4本分のソースを分けてもらうことに成功! 日本に持ち帰り、タイ人の料理人が味を再現。これが今、銀座「サイアム セラドン店」での人気メニューになっています。

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レストランを経営する上でもっとも大事なのは、自分の中の“おいしさの満足感”を信じることです。おいしいと思ったら、その味をとことん追求すること。ただ、その味がお客さまに受け入れられるかどうかはお客さま次第ですから、それは賭けでもある。お客さまの反応をおもしろがれるぐらいでないと、この業界ではやっていけないと思います。
タイ料理を日本人に伝える――これが私の使命
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人生のピンチは2回ありました。今から10年前、売上がおもしろいように伸張し、店舗数も拡大。ところがその変化が急すぎて、スタッフがついて来てなかったのです。徐々にお客さまの数が減り、店をクローズせざるを得なくなりました。出店にはお金がかかりますから、借金がどんどん膨らんでいきます。

このときの私は、店舗を増やすことだけに注力してしまい、「タイ料理のおいしさや魅力を伝える」という使命を忘れていたのだと思います。従業員を解雇するところまで行かずにこの苦境をなんとか乗り超えられたのは、自分が信じていた原点に戻れば何とかなるはずだ、と思い出して奮起できたからです。

2度目のピンチは、7年前、過度の疲労で倒れ、1週間も連続で40度の熱を出したとき。医者から、意識障害になる可能性があると宣言され、片方の目は見えなくなりました。妻は一時、もうだめかもしれない、と覚悟したと言います。

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でも、おかげさまで、このように今は元気になり、まだ夢に向かってまい進している毎日です。一度健康を失って実感しているのは、自分は何かに生かされている、ということ。タイ料理を日本に広げるために、再び命をもらったように思っています。

今、69歳ですが、これからの夢はまだいくつもあります。タイ料理の日本人シェフの育成のために、バンコクで料理学校を設立したい。また、ニューヨークで、日本人シェフによるタイ・レストランを開くのも夢。タイ王国特産の食器“セラドン焼”を日本で販売する事業もやりたい。せっかくいただいた命ですから、もうしばらく、タイ料理のために身を捧げていこうと思っています。